大原其戎
伊予松山の俳人
大原 其戎(おおはら きじゅう、四時園其戎、文化9年5月18日(1812年6月26日) - 明治22年(1889年)3月31日)は、伊予松山の俳人。通称は熊太郎、沢右衛門[1]。
概要
編集伊予国(現・愛媛県)の三津浜に生まれた。父親は綿・麻織物を扱う太物商で俳人の其沢である。万延元年(1860年)、京都に出て七世桜井梅室に入門し、二条家から宗匠の免許を受けた。その後、故郷に戻り俳諧結社の明栄社を興し、明治13年(1880年)に月刊俳誌『真砂の志良辺』を創刊した。同誌に投稿した俳人は800人に達した。
上京後、俳句に興味を持った正岡子規が、明治20年(1887年)の2度目の帰郷の際、友人の勝田主計の勧めで其戎のもとを訪ね、句稿を見せて批評を仰いだ。この時、其戎は75歳であった。同年、子規の「虫の音を踏わけ行くや野の小道」の句が『真砂の志良辺』に掲載され、これが彼の初めて活字になった句とされている。以後、子規は「丈鬼」などの俳号で、明治22年(1889年)に其戎が没し、子の其然が刊行を継承した後の明治23年(1890年)8月まで、同誌に投稿を続けた[2]。『真砂の志良辺』に掲載された子規の句は44句に上る。
脚注
編集- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 村山古郷 『明治俳壇史』角川書店 ISBN 9784048840378 (1978) P66-69
参考文献
編集- 子規ただ一度の其戎訪問 伊予歴史文化探訪,2017年閲覧