橋健堂
橋 健堂(はし けんどう、1822年〈文政5年〉- 1881年〈明治14年〉12月2日)は、日本の漢学者、書家。加賀藩学問所「壮猶館」教授。作家・三島由紀夫の曽祖父。橋倭文重の祖父[1][2][3][4]。
生涯
編集1822年(文政5年)、加賀国金沢(現石川県金沢市)で、加賀藩士の父・橋
成人した健堂は、城下西部の長町四番丁に「弘義塾」を開くとともに、城下中央部の石浦町には女子を対象とした「正善閣」を開いて習字を教えた[1][2]。健堂は、多数の子弟を教育して、「生徒常に門に満つ」と称された[2]。金沢きっての素封家・大村家の一人娘と結婚し、六女(つね、ふさ、こう、より、トミ、ひな)を儲ける[1][2]。
1854年(安政元年)、加賀藩による「壮猶館」の開設に伴って健堂は漢学教授となった[1][2][4]。この際に佐野鼎が「壮猶館」に招かれ、蘭式砲術稽古方棟取となる[1]。1867年(慶応3年)、健堂は卯辰山に漢学塾「集学所」を開き、平民教育にも力をそそいだ[1][2]。この「集学所」は時間割を自由にして夜学の部が設けられ、現代の夜間校のはしりでもあった[1][2]。漢学は従来的な『四書五経』中心を改めて、『蒙求』中心にしたとされる[1]。
1870年(明治3年)、藩の文学訓導、筆翰教師となった健堂は、廃藩置県後の1873年(明治6年)に小学校三等出仕に補された[2]。その後1875年(明治8年)に二等出仕に進み、1879年(明治12年)には、木盃をもって顕彰された[2]。
健堂の6人の子は全員女子であったため、1873年(明治6年)12月に、三女・こうの婿養子として瀬川健三を迎い入れた[5][2]。健堂は『蒙求』中心の漢学や庶民教育に対して尽力したが、その教育姿勢は婿養子の橋健三に継承されていく[2]。1881年(明治14年)12月2日、健堂は59歳で死去し、野田山の墓所に葬られた[2]。野田山には父・一巴と、往来の石碑もある[1]。
人物
編集健堂は、夜学や女子教育の充実など、教育者として先駆的であった[1][2]。また、「壮猶館」「集学所」など、その出処進退は藩の重要プロジェクトと連動していた[2]。健堂が出仕した「壮猶館」は、儒学を修める藩校ではなく、加賀藩が命運を賭して創設した軍事機関であった[2]。健堂は単なる市井の漢学者ではなく、軍事拠点の中枢で海防論を戦わせ、佐野鼎から洋式兵学を吸収する立場にもあった[2]。
その佐野鼎とは親しい間柄でもあった[1][2]。佐野は、1860年(万延元年)の遣米使節となり、1861年(文久元年)には遣欧使節に随行して、海外知識を生かして加賀藩の軍事科学の近代化に貢献した人物であり[2]、七尾に黒船が来航した際には、アーネスト・サトウと会見し、明治新政府の兵部省造兵正に任官した[2]。佐野は江戸に出た後に共立学校(開成中学校)を創立するが、のちの1888年(明治21年)に、健堂の婿養子の橋健三が共立学校に招かれるのは、「壮猶館」における健堂と佐野の親交の縁があったからであった[1][2]。
学問所「壮猶館」
編集三島由紀夫研究家の岡山典弘の調査により、橋健堂が出仕した「壮猶館」の成り立ちの経緯の詳細が明らかにされている[2]。
1853年(嘉永6年)、日本の人々に大きな衝撃を与えたペリーの率いる黒船の来航は、江戸幕府の鎖国体制を崩壊させる外圧の始まりであった[2]。「日本全体が主戦状態にある」という現状認識から、幕府はもちろんのこと、各藩において海防政策が最重要課題の急務となった[2]。健堂のいた加賀藩も財政難に苦しんでいたが海防強化に乗り出していった[2]。そして1854年(安政元年)、上柿木畠の火術方役所の所管地(現在の知事公舎横)に洋式軍事研究所「壮猶館」が整備された[2]。この施設は加賀藩の軍制改革の中核的な存在として明治初年まで存続した[2]。
「壮猶館」で研究されたのは、砲術、馬術、洋学、医学、洋算、航海、測量学などで、その訓練や武器の製造も行なわれた[2]。また、西洋流砲術の本格的な導入と軍制改革を図るため、加賀藩では、洋式兵学者の招聘が検討されて、村田蔵六、佐野鼎、斎藤弥九郎の3人が候補の中から、西洋流砲術家として有名だった佐野鼎が1857年(安政4年)に出仕し、西洋砲術師範棟取役に就任した[6][2][注釈 2]。「壮猶館」では、この佐野を中心に海防が議論され、軍事研究がなされていった[2]。
単なる研究機関ではなかった「壮猶館」の敷地内には、砲術のための棚場や調練場が設けられていて、弾薬所や焔硝製造所、軍艦所も付設されるなど、一大軍事拠点を形成していた[2]。「壮猶館」の資料としては、『歩兵稽古法』『稽古方留』『砲術稽古書』が残されている[2]。これらの資料は、橋健堂の曾孫にあたる三島由紀夫が陸上自衛隊富士学校で学んだテキストの先駆をなすものだと岡山典弘は考察している[2]。
系譜
編集- 橋家系図
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈――橋家」(越次 1983, pp. 86–100)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」(研究11 2011, pp. 112–127)。岡山 2016, pp. 9–42に所収
- ^ 「明治38年」(42巻 2005, pp. 12–13)
- ^ a b 「母の周辺・橋家」(年表 1990, p. 15)
- ^ 「生誕以前――祖先-大正13年」(日録 1996, pp. 7–13)
- ^ 松本英治 2005
参考文献
編集- 佐藤秀明; 井上隆史; 山中剛史 編『決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌』新潮社、2005年8月。ISBN 978-4106425820。
- 安藤武 編『三島由紀夫「日録」』未知谷、1996年4月。NCID BN14429897。
- 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』広論社、1983年11月。NCID BN00378721。
- 岡山典弘『三島由紀夫の源流』新典社〈新典社選書 78〉、2016年3月。ISBN 978-4787968289。
- 松本英治「加賀藩における洋式兵学者の招聘と佐野鼎の出仕」『洋学史研究』第22号、洋学史研究会、60-81頁、2005年4月。 NAID 40007045218。
- 松本徹 編『三島由紀夫――年表作家読本』河出書房新社、1990年4月。ISBN 978-4309700526。
- 松本徹; 佐藤秀明; 井上隆史 ほか 編『三島由紀夫と編集』鼎書房〈三島由紀夫研究11〉、2011年9月。ISBN 978-4907846855。