堺焼き討ち
堺焼き討ち(さかいやきうち)は、豊臣家と江戸幕府の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、慶長20年(1615年)に発生した大坂夏の陣における戦いの一つ。
堺焼き討ち | |
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戦争:大坂の陣 | |
年月日:慶長20年 4月28日 (1615年5月25日) | |
場所:和泉国、堺 | |
結果:豊臣軍の勝利、堺全焼 | |
交戦勢力 | |
豊臣軍 | 徳川軍 堺衆 |
指導者・指揮官 | |
大野治胤 | 向井忠勝 九鬼守隆 |
戦力 | |
2000 | 不明 |
損害 | |
不明 | 堺全焼 |
概要
編集この戦いで豊臣方の武将大野治胤が、手勢2000を率いて堺を焼き討ちしたとされている。焼き討ちを行った理由については、徳川方の兵站となっていた堺への報復であったという。[注釈 1]
戦後
編集大坂城落城後、大野治胤は逃走を図ったが、5月21日に京都で徳川方に捕らえられた。治胤捕縛の報を受けた堺衆は、かつて平重衡が南都を焼き討ちした際、南都衆に引き渡された例を挙げ、京都所司代の板倉勝重に訴えた。勝重はこれを認め、治胤は6月27日に火あぶりの刑に処されたが、それを聞いた勝重は「南都の者たちも重衡に同じことをしてたのか?」と堺衆を諌めたという。また、戦後、幕府は堺の復興に尽力したが、それまでのような繁栄は取り戻せなかったという。
脚注
編集注釈
編集- ^ 大坂の陣当時、堺は徳川軍に武器や弾薬を提供していたという。