四竈孝輔
四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年(明治9年)10月26日[1] - 1937年(昭和12年)12月11日[1])は、日本の海軍軍人。海兵25期・海大7期。最終階級は海軍中将。宮城県仙台市出身。
経歴
編集仙台藩家老・四竈信直の四男として生まれる[1]。海軍予備校、第二高等学校中退を経て、1897年12月、海軍兵学校(25期)を卒業(卒業席次は9位[2])。1899年2月、海軍少尉に任官。
「磐手」回航委員、横須賀海兵団分隊長心得、「天城」航海長心得、「愛宕」航海長などを経て、日露戦争には「宇治」航海長として出征し、日本海海戦時には第2艦隊参謀であった。呉鎮守府参謀兼副官、南清艦隊参謀などを経て、1909年11月、海軍大学校(甲種7期)を卒業した。
「敷島」「薩摩」の各分隊長、皇族付(伏見宮博恭王付)武官、第3艦隊参謀、横須賀鎮守府艦隊参謀、兼博恭王付武官、「敷島」「肥前」「霧島」の各副長、第2戦隊参謀、「津軽」艦長などを歴任し、1917年2月、侍従武官となった。1921年12月、海軍少将に進級。
さらに、軍令部出仕、大湊要港部司令官を経て、1925年12月、海軍中将に進級すると同時に軍令部出仕となり、同月に予備役に編入された。のち、伏見宮別当を勤めた。墓所は多磨霊園(21-1-22-10)
人物像
編集→「堀悌吉 § 家族」を参照
栄典
編集- 位階
- 1899年(明治32年)3月10日 - 正八位[3]
- 1900年(明治33年)12月8日 - 従七位[4]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 従六位[5]
- 1913年(大正2年)2月10日 - 正六位[6]
- 1916年(大正5年)12月28日 - 従五位[7]
- 1922年(大正11年)1月20日 - 正五位[8]
- 1925年(大正14年)12月28日 - 正四位[9]
- 勲章
親族
編集脚注
編集- ^ a b c 秦 2005, p. 215, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:四竈孝輔
- ^ 秦 2005, pp. 269–288, 第1部 主要陸海軍人の履歴:期別索引
- ^ 『官報』第705号「叙任及辞令」1899年3月11日。
- ^ 『官報』第5233号「叙任及辞令」1900年12月10日。
- ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
- ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1916年12月29日。
- ^ 『官報』第2839号「叙任及辞令」1922年1月21日。
- ^ 『官報』第4045号「叙任及辞令」1926年2月20日。
- ^ 『官報』第6729号「叙任及辞令」1905年12月4日
著書
編集- 『侍従武官日記』芙蓉書房、1980年。