北畠利顕
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天正7年7月4日(1579年7月27日) |
別名 | 形部、水木形部、溝城形部 |
主君 | 浪岡氏→津軽為信 |
藩 | 弘前藩 |
氏族 | 浪岡氏 |
父母 | 父:北畠顕重 |
事績
編集北陸奥の名族、浪岡氏の別家川原御所の北畠顕重の嫡男として生まれる。祖父北畠具信は、所領問題から永禄5年(1562年)宗家浪岡氏当主浪岡具運を殺害し(川原御所の乱)、その結果具運の弟浪岡顕範に居館の川原館を攻められ、殺害された。残党は水木館に籠るも落城し、利顕は大浦氏の元へ逃れて家臣となった。宗家浪岡氏滅亡後の天正7年(1579年)7月4日、比山六郎、比山七郎、浪岡氏一族の北畠顕則、滝本重行らが津軽へ来襲し、六羽川合戦が発生し、大浦氏方として戦い、討ち死にした。
参考文献
編集- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社