兼平綱則
兼平 綱則(かねひら つなのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。津軽氏の家臣。森岡信元・小笠原信浄と並ぶ大浦三老の一人。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 寛永2年6月11日(1625年7月15日) |
改名 | 綱則→休道(号) |
別名 | 通称:中書 |
官位 | 伊豆守 |
主君 | 津軽為信 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 称・藤原氏津軽氏支流兼平氏 |
父母 | 兼平盛純 |
子 | 信秋、源八 |
略歴
編集兼平氏は、大浦氏当主・大浦盛信の弟である父・兼平盛純が兼平村(現在の弘前市兼平)を領し、そこに館(兼平館)を構え、兼平を姓としたことに始まる。
大浦三老の一人として、大浦為信(津軽為信)に尽力し、数々の武功を上げた。参陣した主な戦としては和徳城攻め・浪岡城攻め・大光寺城攻め・天正7年(1579年)7月4日の六羽川合戦・田舎館城攻めがある。
慶長19年(1614年)に隠居するが、その後も重大な政事には関与した。元和5年(1619年)7月、信濃国川中島藩への国替えの内示が来た際には、綱則が登城し、断固反対したと伝わる。