僭称
概観
編集自ら「私は○○を僭称している」ということはまずなく、他者を評価するときに「○○を名乗るべき身分にない者が勝手に名乗っている」という批判的な意味で用いるのが一般的である。身分の存在を前提とするため、「皇帝を僭称する」や「王を僭称する」という用法は正しいが、その地位が身分に基づかない「大統領を僭称する」や「社長を僭称する」という用法は不適切である(この場合は単に「偽称」「詐称」という)。
国家の支配権をめぐって複数の勢力が対立している場合、本来は一人であるはずの国家の最高指導者の地位が、複数の人によって名乗られることがある。この場合には互いの当事者は自らの方を正統とし、対立する側の地位を僭称として認めない。どちらを正統としどちらを僭称とするかは、立場の違いによる。
ただし、当初は僭称であったものが、実力にもとづいてその地位を長期間にわたって保持し続けた場合には、もはや僭称とはみなされなくなることもある。
歴史上の実例
編集ローマ帝国
編集ローマ帝国においては、しばしば内乱が勃発し、その中で複数の皇帝自称者が乱立することがあった。特に3世紀の軍人皇帝時代にはそれが著しかった。この中ではローマ元老院の承認を得ている者が正統な皇帝とされており、その他の皇帝自称者は「僭称皇帝」または「簒奪者」として扱われる。
ただし、その区分はしばしば曖昧であり、当初は正統とされていた者が敗北により僭称とみなされるようになったり、逆に当初は僭称皇帝に過ぎなかった者が実力で帝国の広範囲の支配権を手中に収め、その結果として正統な皇帝として認められるにいたるという事例も見られた。
中国
編集中国史上でも、しばしば皇帝の僭称者が現れた。ただし、中国の場合には元々皇帝の称号は実力で広範囲を支配した者が名乗るものであり、僭称皇帝と正統な皇帝との区別は曖昧である。
- 単にその政権が短期間で終わってしまった場合、後世からは正統な皇帝とみなされず、僭称皇帝とされる場合もある。この事例として、袁術や桓玄、侯景などがあげられる。
- 三国時代の呉の孫権が自立して皇帝を名乗ったのは、それ以前の漢(後漢)王朝とはまったく関連を持たなかった[1]。その点では他の僭称者と同様だが、呉は四代五十数年にわたって国が存続し三国時代の三国の一つとして認められたため、普通には僭称とされていない。
ローマ教皇
編集ローマ教皇の場合、教会勢力が分裂して複数の教皇が併立することがある。この場合、その一方は教皇位を僭称していたという意味で、対立教皇と呼ぶ。
ただし、複数の教皇のどちらを正統とし、どちらを僭称とみなすかという区分はしばしば曖昧である。
日本
編集日本の天皇の場合、治承・寿永の乱の際には平家に擁されていた安徳天皇と京都の後鳥羽天皇が併存した。平家の側では後鳥羽天皇を認めず、また後鳥羽天皇側では安徳天皇はあくまで「旧主(前天皇)」とみなされていた。
また、南北朝時代には京都の北朝と吉野などの南朝がそれぞれの天皇を擁して対立していた。北朝側からは南朝の天皇は「南主」と呼ばれて皇位の僭称者とみなされていたし、南朝側から見ると北朝の天皇こそが僭称者に過ぎなかった。
類似した事例
編集また日本では特に戦国時代などに、朝廷からの任命を受けないまま官名を自称するケースもある。織田信長が初期に名乗った上総介もその一つであるが、正式に叙任を受ける方が少数だったこともあり、批判的な意味の強い「僭称」とせず単に「自称」と記すことも多い。
君主を僭称したとされている者
編集- 袁術
- 桓玄
- 慕容詳
- 慕容麟
- 蕭正徳
- 安禄山(燕 (安史の乱))
- ヴィーラ・パーンディヤ (パーンディヤ朝)
- スンダラ・パーンディヤ (同上)
- ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート
- チャールズ・エドワード・ステュアート
- エメリヤン・プガチョフ
- 偽ドミトリー1世、偽ドミトリー2世、偽ドミトリー3世
- ガウマタ
脚注
編集- ^ しかし、孫権は魏の曹丕から諸侯王の呉王に封じられており、後漢初代皇帝の劉秀が更始帝から諸侯王の蕭王に封じられ、その後、独立して後漢の光武帝となったのと同じケースであるといえる。また、同時代の魏の曹丕は後漢の諸侯王の魏王であり、後漢皇帝から禅譲されて皇帝に即位するという形式を採ったことにより、自らの正統性を打ち出していた。蜀の劉備は後漢から左将軍・豫州刺史・宜城亭侯や大司馬に任じられているが、漢中王や蜀漢皇帝は後漢に無断で勝手に名乗っている。これは孫権のケースよりも明らかに僭称にあたるといえるが、劉備は自身が漢の帝室に連なる血統であることを打ち出すことによって、自ら名乗った皇帝位の正統性を主張した。