会津城籠城戦
会津城籠城戦(あいづじょうろうじょうせん、慶応4年8月23日 - 明治元年9月22日(1868年10月8日 - 1868年11月6日))は、会津戦争(戊辰戦争)の戦いの一つ。なお「会津城籠城戦」は会津側独自の呼び方で、新政府側では「会津城攻略戦(会津城攻め)」、中立的視点からは「会津城攻防戦」と呼ばれている[1]。
会津城籠城戦 | |
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会津戦争 | |
戦争:会津戦争 | |
年月日: (旧暦)慶応4年8月23日 - 明治元年9月22日 (グレゴリオ暦)1868年10月8日 - 1868年11月6日 | |
場所:陸奥国会津城下(現在の福島県会津若松市) | |
結果:新政府軍(官軍)の勝利、会津藩の降伏 | |
交戦勢力 | |
新政府軍 (白河口総督府) |
旧幕府軍 ( 奥羽越列藩同盟) |
指導者・指揮官 | |
板垣退助 |
松平容保 |
概略
編集母成峠の戦いで勝利した新政府軍に対し、旧幕府側の会津藩は若松城において約1ヶ月における籠城戦の後、降伏した。この会津攻略戦では、在府の大村益次郎は周囲の敵対勢力を徐々に陥落させていく長期戦を指示したが、戦地の主将・板垣退助、伊地知正治らは、これに反対し一気呵成に敵本陣を攻める短期決戦を決断。この時、会津、庄内両藩は蝦夷地をプロイセンに売却して資金を得ようしていた。板垣らが会津を攻め落した為に、ビスマルクから返書が阻止されて蝦夷地売却の話が反故となったが、長期戦となっておれば、日本の国境線は大いに変わっていたと言われる[2]。そのため特に会津攻略戦での采配は「皇軍千載の範に為すべき」と賞せられた[2]。
経過
編集戦闘
編集8月23日(1868年10月8日)、会津若松城攻略戦を開始。北出丸への攻撃で、迅衝隊大軍監、各隊長ら土佐藩側将兵の死傷者が続出する[1]。
8月25日(太陽暦10月10日)、小軍監・安岡覚之助(土佐勤王党血盟同志)、小軍監・三原兎弥太(土佐勤王党血盟同志)ら会津若松城攻めにおいて討死[1]。
8月27日(太陽暦10月12日)、迅衝隊小笠原三番隊・阿部駒吉(土佐勤王党血盟同志)、会津若松城下の戦闘において討死[1]。
9月19日(太陽暦11月3日)、迅衝隊総督・板垣退助、9月22日(太陽暦11月6日)を期限として会津藩に開城降伏を説く[1]。
降伏
編集旧暦の明治元年9月22日(太陽暦11月6日)、会津城下甲賀町で降伏儀式が行われ、新政府軍から軍監の中村半次郎、軍曹の山県小太郎(元・豊後岡藩脱藩志士)が全権代表として降伏文書を受け取り、新政府軍に城を明け渡した。
その後
編集会津が降参するにあたり、会津藩士らは主君・松平容保が「素衣面縛」即ち罪人のように縄で縛られた状態で引きずり出され辱められるのではないかと危ぶんだが、板垣は藩主としての体面を保たせ「輿」に乗った状態で城から出て降伏する事を許した。この事に会津藩士らは感激した[3]。さらに「降伏した以上は、我ら等しく王民(日本の臣民)である」として、会津藩の罪を減ずるよう「寛典論(穏便なる処遇を求める嘆願)」を上奏。その趣意は「これからは海外諸国と対峙せねばならず、過酷な処分によって後世に遺恨を残し、日本民族統合の障壁になってはならない」とするものであった。また「有能な人材は、積極的に政府へ登用すべき」との意見を述べた。これに対して木戸孝允らは「厳罰論(厳しく処分すべきとする意見)」を唱え、処遇問題に総督府内で意見対立があった。本来ならば、勅許の無き日本領土の割譲[4]は万死に値する罪であったが、結局は会津攻略戦の主将である板垣が言うのならばと、意見が受け入れられ、家老が詰腹を切る事を条件に、藩主・松平容保の切腹や藩の改易処分を逃れ、減封処分が下る。さらに会津藩が斗南藩へ減石転封となった時は、板垣は藩士らが貧する様を見て特別公債の発給を書面で上奏している[5]。板垣は会津攻略戦の官軍側・主将でありながら、維新後すぐから賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であったため、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れている。また、自由民権運動も東北地方では福島県を中心として広がりを見せることになった[6]。
所懐
編集武力討幕を主張し、それらを総て成し遂げた官軍の将・板垣退助の心境に勝者としての奢りは微塵も無く、むしろ敗者に対する名誉恢復に注がれている。これは板垣が武士道精神に則り「昨日までの敵も降参したる上は皆等しく臣民」との考えのもと、官賊敵味方の禍根を後世に残し、日本民族統一の障壁となることを最も憂いたためである[2]。
抑(そもそ)も戊辰戰爭の勃發せし原因は、新舊思想の相違より來る所の國政に關する議論の捍格と、各藩の間に於ける感情の軋轢(あつれき)にあり。其順逆の見地に於て徑庭あるが爲めに、稱して官軍といひ賊軍と呼ぶも、そは單に外形に過ぎずして、其忠を皇室に效(いた)さんとするの志や一(ひとつ)也。故に東北合縱(奥羽列藩同盟)の諸藩と雖も深く其心事を解剖する時は毫(すこし)も惡(にく)むべき所あるを見ず、これ蓋(けだ)し我が國民性の素養の然(しか)らしむる所にして、亦た我邦歴史の美を成す所以たるに外ならざる也。當時、「勤王論」といひ、「攘夷論」といひ、若(もし)くは「公武合體論」といひ、種々の議論交換せられたるが、天下の識者先覺者は期せずして、先づ萬事(私心)を放擲して國家の統一を圖(はか)り、主權を確立して獨立の基礎を鞏固にし、以て宇内列國(欧米列強)と對峙せざるべからずとの意見に一致し、加(くは)ふるに封建專制の弊を鑑(かんが)み、人爵を賤(いや)しみ天爵を貴ぶの思想、輿論の勢力となりて、遂に維新の改革を見るに至れり。即ち大體に於て西軍(新政府軍)はこの新思想の代表者たるに反して、東軍(旧幕軍)は舊思想の味方たるの觀ありき。換言すれば後者は保守主義に囚(とら)はれて現状維持を主張せるに反(はん)し、前者は統一主義を標榜して維新の改革を斷行せる也。而して當時東軍によりて代表せられたる奥羽諸藩の最も憂ひと爲せる所のものは、實に薩長の專横跋扈にありしも、予輩は即ち思(おも)へらく、豺狼路(みち)に當れり奚(いづく)んぞ狐狸を問(と)はん 。薩長にして他日横暴を逞(たくまし)ふせば、其時に及んで之を討伐するも未だ遅(おそ)しと爲さず。今日はたゞ國家の統一主權の確立を以て急務とすべきのみと、即(すなは)ち汗馬に鞭(むちう)ちて征討の事に從(したが)ひ、これが功を奏したる也[7]。 — 板垣退助(『會津戊辰戰爭』序文より)
板垣がこの序文を寄せたのは、晩年80歳(亡くなる3年前)の時である。同書巻末には「本書編纂に際し多大の御援助を賜りたる芳名」の筆頭に「伯爵 板垣退助閣下」が挙げられており、次いで、元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎閣下、子爵 松平保男閣下、松平健雄閣下、枢密院顧問官男爵 山川健次郎閣下、男爵 林權助閣下らが記されている。維新囘天の功を成し遂げた彼の感慨は、自らの手柄を誇示するわけでもなく、敵に対する恨みでもなただ切々と日本の将来に対する憂国の念、そして愛国心である[2]。
脚注
編集- ^ a b c d e 『板垣退助君戊辰戦略』一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻
- ^ a b c d 『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂
- ^ 『板垣退助君傳記』宇田朋猪著
- ^ 条約書面上は「99年間の租借」
- ^ 「伯(板垣退助)は此間に在て、特に亡國を憐れむの情を切にし、獨り寛典論を唱ふ。曰く「最早降伏せる會藩の士、藩公、彼等嚴罰に處するに能はず。彼等その途を誤りたるは、單に藩主を挾要せる首謀者の罪なり。然らば其の首謀者を處斷するのみ」と。爰に於て朝議は竟に伯(板垣)の主張に傾き「征討の首將たる板垣をして寛典論を唱ふるならば致方なし」とて、東北各藩主と同樣減石の上、會藩は斗南藩六萬石に轉封せらるゝに至る。然るに二十八萬石の會藩、減じて六萬石と成りたるが故、藩臣上下皆困阨せば、伯(板垣)は又之に同情して、藩士授産の資に充てしむるが爲、國幣二十萬圓を給附せらるやう斡旋し、終に御下賜あらせらるに至れり」(『板垣精神』)
- ^ 『無形板垣退助』平尾道雄著
- ^ 原文「抑(そもそ)も戊辰戰爭の勃發せし原因は、新舊思想の相違より來る所の國政に關する議論の捍格と、各藩の間に於ける感情の軋轢にあり。其順逆の見地に於て徑庭あるが爲めに、稱して官軍といひ賊軍と呼ぶも、そは單に外形に過ぎずして、其忠を皇室に效(いた)さんとするの志や一(ひとつ)也。故に東北合縱(奥羽列藩同盟)の諸藩と雖も深く其心事を解剖する時は毫(すこし)も惡(にく)むべき所あるを見ず、これ蓋(けだ)し我が國民性の素養の然(しか)らしむる所にして、亦た我邦歴史の美を成す所以たるに外ならざる也。當時、「勤王論」といひ、「攘夷論」といひ、若(もし)くは「公武合體論」といひ、種々の議論交換せられたるが、天下の識者先覺者は期せずして、先づ萬事(私心)を放擲して國家の統一を圖(はか)り、主權を確立して獨立の基礎を鞏固にし、以て宇内列國(欧米列強)と對峙せざるべからずとの意見に一致し、加(くは)ふるに封建專制の弊を鑑(かんが)み、人爵を賤(いや)しみ天爵を貴ぶの思想、輿論の勢力となりて、遂に維新の改革を見るに至れり。即ち大體に於て西軍(新政府軍)はこの新思想の代表者たるに反して、東軍(旧幕軍)は舊思想の味方たるの觀ありき。換言すれば後者は保守主義に囚(とら)はれて現状維持を主張せるに反(はん)し、前者は統一主義を標榜して維新の改革を斷行せる也。而して當時東軍によりて代表せられたる奥羽諸藩の最も憂ひと爲せる所のものは、實に薩長の專横跋扈にありしも、予輩は即ち思(おも)へらく、豺狼路(みち)に當れり奚(いづく)んぞ狐狸を問(と)はん 。薩長にして他日横暴を逞(たくまし)ふせば、其時に及んで之を討伐するも未だ遅(おそ)しと爲さず。今日はたゞ國家の統一主權の確立を以て急務とすべきのみと、即(すなは)ち汗馬に鞭(むちう)ちて征討の事に從(したが)ひ、これが功を奏したる也。然(しか)りと雖も薩長の專横は不幸にして事實なりき。是を以(もつ)て予は大に兵力を養(やしな)ひ、以て他日(将来)に備ふるの必要あるを思ひ、土佐藩に於ける兵制改革を斷行して志願兵の制を採り、先づ階級打破の端を啓(ひら)けり。是を以て後ち三藩の兵を朝廷に獻したる時には土佐藩には既に歩騎砲工の四兵種を具備し、其騎兵のうちには平民の階級より出でたるものも亦之れありし也。而(しか)して之と同時に予は昨日まで敵軍の將として死生の間に見へたる幕人・沼間守一、松浦巳三郎、中條某等を聘し、之に告ぐるに曩(さき)に卿等の兵を起し官軍に抗したるは、其志、毫(すこし)も恨(うらみ)を皇室に構ふるに非(あら)ずして、たゞ單に薩長の專横を惡(にく)むにありしは、予の夙(つと)に諒とする所也 。然(しか)るに今や薩長專横の端漸く顯はる。これ卿等の宿志を成すの秋(とき)にあらずや。願くは卿等我藩の兵を見ること猶(な)ほ卿等の兵の如くし、之(これ)を訓練して他日(将来)の用を爲さしめよとの言(げん)を以てしたるに、彼等は勇躍して「快」と稱し來りて、我藩兵の教習に任じ、同時にまた同じく幕人たる曲木某を聘して騎兵の教習と爲し、佛人アントアンを聘して砲兵の敎習と爲せり。然(しか)るに後ち三藩の兵を朝廷に獻ずることになりて、武力によりて藩閥を討伐するの計畫に代ゆるに、言論によりて之を爲すの已むを得ざるに至れり。即ち自由民權の運動は斯(かく)の如くにして起れる也。初め予の今市に於て幕府の脱走兵と戰ふや、敵の死者を檢するに多くは文身(いれずみ)せる博徒、破落戸(ならずもの)の徒にして、爲めに予は之を我軍の戰死者たる士族の子弟にして、得る所、失ふ所を償はざるの憾(うらみ)あり。後ち母成峠の險を突破して直ちに兵を會津城下に進め、一擧にして之を屠(ほふ)らんとするに方(あた)り、予は思へらく會津は天下屈指の雄藩なるが故に、我が寡兵(わずかな兵)を以て之に肉薄するは甚(はなは)だ無謀の擧たるを免(まぬが)れず。然(しか)れども暖國(なんごく)の兵を以て寒國(ゆきぐに)を攻む。若(も)し一(ひと)たび嚴冬の襲ふ所とならば、士氣爲めに沮喪せん。如(し)かず會津城を以て埋骨(まいこつ)の地と爲すの決心を以て急に攻めて之(これ)を抜(ぬ)かんにはと。即ち驀進すれば料らざりき。其籠城せるものはたゞ其士族の階級のみにして、一般人民は之(これ)を風馬牛相關せざるの状あり。即ちにして城陷り藩主松平氏の降服して寺院に退き罪を俟(ま)つや、一人の農夫あり。自作の甘藷を齎(もた)らし來りて之(これ)を舊主に獻(けん)ぜんと乞(こ)ひ、執達を番兵に求めたりとて藩中の諸士、之(これ)を予(よ)に傳(つた)へて一美談と爲せり。然るに予は是等の事實を目睹耳聞して、國家の前途に關し頗る感慨に堪へざるものあり。直ちに其感想を陣中の諸士に語りて曰く、會津は天下屈指の雄藩也。若(も)し上下心を一にし、戮力を以て藩國に盡さば、僅(わづ)かに三千未満の我官兵、豈(あに)容易に之(これ)を降(くだ)すを得(え)んや。而(し)かも斯(かく)の如(ごと)く庶民難(なん)を避(さ)けて負荷逃散し、毫(すこし)も累世の君恩に酬(むく)ゆるの慨なく、其滅亡を眼前に見て風馬牛の感をなす所以のものは果して何故ぞ。今僅(わづか)に一農夫の甘藷を獻(けん)ずるが如きは特に言ふに足らざる也。若し彼等にして眞に國恩を思はゞ、啻(たゞ)に一人の物を獻ずるに止(とゞ)まらず、闔國の民、宜(よろ)しく生命を犠牲と爲して其國を死守すべきのみ。然(しか)るに斯(か)くの如く一般人民に愛國心なき所以のものは、畢竟(つまるところ)上下隔離し士族の階級が其樂を獨占して平素に在て人民と之を分たざりし結果に外ならず、夫れ樂を倶にせざる者は亦た其憂を共にする能(あた)はざるは理の當(まさ)に然(しからし)むる所。天下の雄藩たる會津にして即ち然(しか)り、況(いはん)や他の弱藩に於てをや。我邦(わがくに)にして若(も)し一朝外國(とつくに)との事を構ふるあらば、其結果知るべしのみ。今や封建の勢(いきほひ)、既に蹙(ちぢこ)まり、時局これより一新せんとす。此時に方(あた)り我邦にして苟(いやし)くも東海の表に屹立し、富國強兵の實を擧(あ)げんと欲せば、須(すべか)らく上下一和、衆庶と苦樂を同ふするの精神を以て、士の常職を解き、國民平等の制と爲し、以て全國皆兵主義を行はざる可らずと。乃(すなは)ち兵を統(す)べて藩地に凱旋するに及び、予は天下に率先して士の常職を解き、其世祿を廢し、階級の制度を撤去して國民皆兵を實行したりき。之(これ)を要するに戊辰戰爭は我國民に國家の統一と主權の確立を教へ、兵力上の弱點を指摘して國民皆兵主義の自覺を惹起せしめたり。本史を讀むの士、若(も)しこの綱領、眼目を捕捉し、而(しか)して彼我の情僞と用兵策戰の如何を研究せば、蓋(けだ)し誤(あやま)らざるに近からんか。頃日、平石大尉『會津戊辰戰爭』を著(あら)はし、予の序文を徴す。予、固辭する能はず、即(すなは)ち所懷の一端を記して序文に代ふと云爾(しかいふ)。大正五年十二月、板垣退助識」(平石辨藏著『會津戊辰戰爭』、大正6年(1917年)5月1日發行)
参考文献
編集- 『會津戊辰戰爭』平石弁蔵著、大正6年(1917年)5月1日發行
- 『土佐藩戊辰戦争資料集成』林英夫編、高知市民図書館、2000年
- 『板垣精神』一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 編纂、2019年、ISBN 978-4-86522-183-1