五月 一朗(さつき いちろう、1919年7月7日 - 2014年9月4日[1])は浪曲師。日本浪曲協会元会長。本名は岩野 久米一(いわの くめいち)。最初の妻で曲師は、初代京山小圓嬢の娘・五月雅子。2007年、長年相三味線を務めた加藤(五月)歌恵(林伯猿の娘)と再婚した[2]

略歴

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香川県大川郡志度町(現・さぬき市)出身。香川県立志度小学校(後の香川県立志度高等学校)卒業。その後に大阪で行われた浪曲大会で初代京山小円嬢に激励され1936年に初代広沢駒蔵に弟子入り。6ヵ月後、大阪松島の広沢館で初舞台。芸名を広沢 駒月とする。1940年5月1日タイヘイレコードの吹き込みのときに、会社では広沢駒月では古いからと改名することとなり、会社の発案で5月1日に吹き込むのだからと五月一朗と改名した。一時NHK専属であった。

主な受賞に、1980年芸術祭大衆芸能部門優秀賞、1993年日本芸能実演家団体協議会芸能功労者表彰、下町人間庶民文化賞ほか。得意演目は太閤記、乃木将軍。

2014年9月4日、肺炎のため東京都内の病院で95歳で死去。

弟子

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五月 小一朗さつき こいちろう
本名 森 一樹
別名 目白バタイユ
生年月日 1968年7月14日
没年月日 2021年7月
出身地 東京都練馬区
師匠 五月 一朗
活動期間 1993年 - 2021年
  • 五月 小一朗(さつき こいちろう、1968年7月14日 - 2021年7月末)[3]。1993年5月入門「小一朗」。2004年ごろより日本浪曲協会を休会[4]。2018年頃より「五月小一朗」名義での活動を再開していた[5]。落語家の瀧川鯉白は、小一朗とのつながりで落語に関心を持ち、後に瀧川鯉昇に入門している[6]
  • 五月 一秀(さつき いっしゅう、本名:敷田秀治、1951年3月6日 - )福岡県北九州市出身。1973年8月入門「五月 秀若」。1975年7月から休業。2011年から活動を再開、2012年5月浪曲親友協会入会[7]、日本浪曲協会にも所属。唯一の九州在住のプロ浪曲師。
  • 五月 二朗
  • 五月 国若
  • 五月 十朗

脚注

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  1. ^ 訃報:五月一朗さん95歳=浪曲師 毎日新聞 2014年9月4日閲覧
  2. ^ 二〇一四年笑芸関係の物故者. 東京かわら版 4月号 寄席演芸年鑑2015年版. (平成27年3月28日). p. 79 
  3. ^ 山口屋左七(@sanullim) (2021年8月18日). “浪曲師・目白過激團主宰、五月小一朗(目白バタイユ・本名 森一樹)、令和3年7月末、満53歳で急逝いたしました。”. twitter. 2021年8月19日閲覧。
  4. ^ 産経新聞朝刊 (東京): p. 26. (2006年5月13日) 
  5. ^ 『寄席演芸年鑑2002年版』東京かわら版、2002年3月29日、154頁。 
  6. ^ 平坂純一『レコキンスター「目白バタイユ 死に至るまでの生を讃えた浪曲師」』311号、一水会、2021年12月1日、3頁。 
  7. ^ 浪曲師および曲師紹介”. 公益社団法人 浪曲親友協会. 2023年2月24日閲覧。