二十六年式拳銃
二十六年式拳銃(にじゅうろくねんしきけんじゅう)は、1890年代初期に開発・採用された大日本帝国陸軍の拳銃。
二十六年式拳銃 | |
概要 | |
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種類 | 軍用回転式拳銃 |
製造国 | 日本 |
設計・製造 | 東京砲兵工廠 |
性能 | |
口径 | 9 mm |
銃身長 | 120 mm[1] |
ライフリング | 4条 |
使用弾薬 | 二十六年式拳銃実包 |
装弾数 | 6発 |
作動方式 | ダブルアクション |
全長 | 230 mm[1] |
重量 | 928 g[1] |
銃口初速 | |
有効射程 | 100 m |
開発
編集創設間もない日本軍で最初に制式とされたS&W No.3 回転式拳銃(初期の陸軍では、針打(センター・ファイア)式のS&W No.3および、蟹目打ち(ピン・ファイア)式の各拳銃を、銃身長や装弾数の違いにより一番形・二番形・三番形[5]として分類し、各々制式としていた)は強力な弾薬を使用でき、壊れ難い頑丈な構造を有していたが、その重量・サイズの大きさやシングルアクション専用で片手での連射に難のあった点が欠点とされ、ダブルアクション機構を有する拳銃が待望されていた。
既に村田銃の国産化に成功していた陸軍は、1886年(明治19年)にフランス軍用MAS 1873拳銃を入手[注釈 1]し、陸軍戸山学校において国産化研究を始めたが、明治維新以来の技術的な蓄積により模倣が比較的容易だったグラース銃[注釈 2]とは異なり、日本とは桁違いに高いフランスの工業水準を背景に、より新しい技術で製造されていたMAS 1873拳銃の模倣は困難をきわめた。
MAS 1873拳銃は銃身と一体化したフレーム内に弾倉が固定されている構造だったため、中折れ式よりも頑丈(=高圧の弾薬に耐え得る)だったが、中折れ式のS&W No.3に比べて排莢・再装填に時間がかかる点が嫌われ、中折れ式の継承を望んでいた騎兵科からの上申により、.38口径で中折れ式とD/A機構を兼備した“スミスウエソン五連発拳銃”(S&W .38 Double Action拳銃)の採用が、この時期に検討された記録も残されている[9][注釈 3]。
また、MAS 1873拳銃は黒色火薬を用いた弾薬を使用していたが、同時期に欧州で製品化されたばかりの無煙火薬採用が追加して求められるなど、東京砲兵工廠での国産化計画は1893年に至っても具体的成果を挙げられないまま難航した。
国産化の試行開始から7年を経た1893年に至り、MAS 1873拳銃を模倣するプランは放棄[10]され、世界中に多くの銃器を輸出して日本の銃器開発とも密接な関係のあった、ベルギー製“9 mm Belgian Nagant M1878”[11]と、その弾薬である“9mmx22R”弾[12]をモデル[注釈 4]に、S&Wの中折れ式機構を足した独自設計の拳銃が急遽開発され、これが1893年(明治26年)[注釈 5]に陸軍の新制式拳銃として採用された[注釈 6]。
メカニズム
編集二十六年式拳銃がモデルとしたNagant M1878は、サイド・プレート(機関部側面の蓋)を簡単に取り外す事ができる構造となっていたが、二十六年式拳銃はこれを継承・発展させて蝶番状にサイド・プレートを開いて、日常的なメンテナンスを簡単に実施できる構造[注釈 7]となっていた。これは、フランスの Fagnus Maquaire リボルバー(1873年) と同じ構造、外観デザインをしている。
拳銃に狙撃能力は必要ないとの判断から、S/A機能および撃鉄の指かけ部が削除されてD/A[注釈 8] のみとされ、照準は固定式で製品によってバラつきがあった事が記録[2]されている。
また、シリンダー(蓮根状の弾倉)が勝手に回転するのを防ぐ部品(シリンダー・ストップ)が付いておらず、引き金を絞るとその一部がせり上がってシリンダー・ノッチ(窪み)に嵌合して、撃発時のみシリンダーの動きを止める構造となっているのも二十六年式拳銃の特徴である[14][注釈 9]。
銃身
編集二十六年式拳銃の銃身は、二十六年式拳銃実包の弾頭外径が9.10 mm[注釈 10]であるのに対して、腔線(ライフリング)の深さを0.15 mmとして谷径を9.30 mmまで彫り[15][注釈 11][16][注釈 12][注釈 13]、意図的にライフリング谷底の間隙から前方へガス漏れを発生させる構造とされた。
この手法は現代銃器のH&K VP70でも採用されており、二十六年式拳銃と同様に深彫りライフリングを用いて腔圧を下げる工夫が施されている。腔圧を下げた代償として初速が低下するため、特に二十六年式拳銃では端的な低威力[2]の原因となっている。
弾薬
編集二十六年式拳銃用の専用弾薬である9mmx22R弾薬[2][4][注釈 10]は、.38 S&Wに近いサイズの薬莢[注釈 14]を用いていたが、その内部構造は現代式の無煙火薬を用いる弾薬とは若干異なっており、火薬と弾頭の間には2枚の厚紙で上下を挟まれた蝋板があり防湿と火薬蓋を兼ねているなど、旧来の弾薬から継承されたデザインで製造されていた。
同弾薬のエネルギー値は、当初の模倣対象だったフランス軍用MAS 1873拳銃に使用されていた11 mm Mle 1873弾薬[注釈 15]に準じたエネルギー値となっていた[注釈 16]。
弾頭が被甲されていないため、人体に命中すると変形する拡張弾頭(ダムダム弾、ソフトポイント弾)と認識される可能性があったが、束ねた新聞紙・杉板・砂に対して同弾を撃ち込んだ実験[2]の際には、初速が非常に低いため弾頭の著しい拡張・変形現象は発生せず、ハーグ陸戦条約には抵触しない水準のものとして、そのままの形状で使用され続けた[注釈 17]。
配備・運用
編集世界各国の軍用拳銃は、保守的なエンフィールド・リボルバー (No.2 Mk.I)に固執したイギリス軍を除き、第一次世界大戦から戦間期にかけて回転式拳銃から自動拳銃へ移行しはじめており、日本においても早くも日露戦争当時から陸軍内で南部式自動拳銃(南部式大型自動拳銃)が使用[20]されていたが、当時の用兵では拳銃の用途は限定されたものであり、拳銃を主装備とした騎兵科の衰退とともに長年その更新が省みられる事はなく、回転式で故障も少ない二十六年式拳銃はそのまま使用され続けた。
南部式自動拳銃は中国やタイへ輸出されるなど一定の地位を築き[注釈 18]、1924年(大正13年)には海軍に採用され、翌年には改良型が十四年式拳銃として十四年式拳銃実包ともども陸軍に採用されている。
二十六年式拳銃の生産は、十四年式拳銃より小型で安価な九四式拳銃が採用された1930年代後半に終了したと考えられているが[要出典]、在庫の関係により少数が太平洋戦争の終結まで使用された。
運用国
編集エピソード
編集- 二・二六事件で襲撃された鈴木貫太郎は、二十六年式拳銃で至近距離から3発も銃撃されながら死を免れたため、これをして同銃の低威力さへの例証とする意見もある[28]。
- 明治後期から二十六年式拳銃は一般に市販されており、銃が22円(現在の440,000円程度)、弾薬が100発3円(現在の60,000円程度)とかなり高価だった[要出典]。
- 全ての製造期間において美しい仕上げが施されていたため、戦後に進駐した米兵の間でも二十六年式拳銃は戦利品として人気があり、多数が残されているため価格も手頃である[要出典]。
- 東京の桑原鉄砲店からは本銃を参考に設計された桑原製軽便拳銃が発売されており、これを使用する将校もいた。
- 現代の米国ではType 26と呼ばれており、9mmx22R弾薬を自作して本銃の射撃を楽しんでいる人達も存在し、弾薬の入手・再現に苦労させられ、製作された当時の苦肉の策だった安全策のため高いパフォーマンスは得られないものの、比較的安全かつ楽しく射撃できるアンティーク的な指向の銃器として認識されている[注釈 19]。
登場作品
編集映画・テレビドラマ
編集- 『226』
- 帝国陸軍の反乱部隊に対し首相官邸および牧野伸顕が滞在していた、湯河原の伊藤屋旅館の別館「光風荘」にそれぞれ配置された警察官が使用。
- 『金田一少年の事件簿N (neo)』
- 『八甲田山』
- 青森第五連隊雪中行軍隊に随行して生還した山田少佐が、搬送先の病院で自らの胸を撃って自決する際に使用。
漫画・アニメ
編集- 『ゴールデンカムイ』
- 第100話において「(弾が)豚の鼻に当たってポトリと落ちた」という評判が語られている。
- 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』
- 「ニュー中川!の巻」に登場。
- 『さよなら絶望先生』
- 『小林少年と不逞の怪人』
- 『端ノ向フ』
- 赤色匪賊が使用。
- 『ムサシ』
ゲーム
編集- 『SIREN』
- 美浜奈保子が合石岳にて拾得し使用。 第二次世界大戦中に軍と羽生蛇村に繋がりがあったことから村に保管されていたとされる。使用弾薬が9 mm弾となっているほか、実銃と異なりスイングアウトして新しい弾薬を装填する。
- 『パワプロクンポケット7』
- 『メダル・オブ・オナー ライジングサン』
- 『Shadow Corridor 2 雨ノ四葩』
- 主人公である時雨がゲーム内のダンジョンである雨ノ四葩内でしばしば拾得し、敵(徘徊者)を足止めできる数少ない手段として活用する。長い間手入れされていなかったらしく、全体的に錆び付いている他、不発や発砲した途端に銃そのものが破損する事もある。シリンダーに弾薬が錆び付いて固着しているため、弾薬の交換は出来ず使い捨て。
脚注
編集注釈
編集- ^ 当時のフランス軍はインドシナなど高温多湿な熱帯植民地を獲得しており、弾薬の防湿性の低さと発火の不確実さに悩まされ続け、1879年のトライアルで採用されたGaupillatによる改良型弾薬によって、ようやくその解決を見ていた[6]。こうした情報は第二次仏軍軍事顧問団を通じて既にもたらされており、研究用拳銃の入手に際しては、ゴービヤ(Gaupillat)拳銃(またはゴーピ式拳銃)の入手が、フランス駐在武官の鶴田砲兵大尉に対して求められている。[7][8]
- ^ グラース銃は、幕末に輸入されたシャスポー銃とほぼ同じものであり、西南戦争前から国産化が検討されて、これが実現したものが村田銃である。
- ^ 同銃の中折れ構造は二十六年式拳銃にも導入されたほか、後に姉妹品である.32口径版が桑原製軽便拳銃として民間でコピー生産され、二十六年式拳銃より強い威力を持ちながら小型で安価だったため大変な好評を博している。
- ^ Mosin-Nagant小銃の設計者としても知られるNagant兄弟のデザインに基づく回転式拳銃の完成形は、ロシア帝国軍に採用されたNagant M1895(独自のガス・シール機構を持つ)となった事で知られている。なお、日露戦争で日本軍と交戦した極東のロシア軍は、欧州に比べて装備の更新が遅れていたため、S&W ロシアン・モデルを使用していた事が知られている。同銃はS&W No.3のロシア向け輸出バージョンだったが、日露戦争ではこの銃が大量に鹵獲された。その後、鹵獲品のS&W ロシアン・モデルは、日本軍から退役した多数のS&W No.3とともに倉庫に眠っていたが、1938年に日本が後援して成立させた汪兆銘政権軍に供与された。日本の敗戦と汪兆銘政権の崩壊により、これら旧式拳銃多数も国民党軍によって接収されたが、近年になって台湾の倉庫で眠っていたものが発見された例が知られている。
- ^ 二十六年式拳銃が実際に形となって生産が始まるのは1894年(明治27年)以降の事であり、同時期に民間で製造された桑原製軽便拳銃と、ほぼ一緒にデビューを迎えている。[13]
- ^ 1853年の黒船来航時に徳川家慶に献上された米国製のドラグーン型回転式拳銃(en)が、積極海防派の代表的人物だった徳川斉昭治下の水戸藩で国産化されていたため、国産の回転式拳銃は二十六年式拳銃の登場以前に存在していた。水戸藩で製造されたドラグーン拳銃は、1860年に発生した桜田門外の変において、水戸浪士の多くがこの拳銃を携帯して襲撃に参加していた、との口伝を子孫が伝えているほか、その現物も残されており、当時の日本には近代工業基盤が存在しなかったため、製造技術水準が低く銃身内にライフリングが刻まれていなかった事も判明している。
- ^ 二十六年式拳銃のモデルとして良く誤解されているのがLebel M1892だが、同銃と二十六年式拳銃の共通点はサイド・プレート(機関部側面の蓋)が蝶番状に開ける点だけで、その方向にも用心鉄の用い方にも、全く共通点は無い。
- ^ 二十六年式拳銃のD/A機構は、後のS&W社製品のような洗練されたものではなく、重い引き金を力まかせに引くものである。S&W社のD/A機構であれば、引き金を絞って行くと最後のひと詰め直前でシリンダーの動きが止まるため、このタイミングで照準を定めてから射撃する事ができる。このため、しばらく空撃ち練習を続けていれば、D/AでもS/Aと同じように精密な射撃が可能になる。幕末のエンフィールド銃に始まり村田銃へと続く驚異的な進化を続けていた小銃に比べて、命中精度が極端に低く射程も短い拳銃は威力・精度の面で取り残された存在となっていた。当時の軍用拳銃は歩兵部隊の火力として重要な存在ではなく、騎乗しながら射撃する騎兵を除けば、戦闘中に脱走しかねない部下の兵士達を牽制する用途が主であり、滅多に起きない至近距離での白兵戦や、匪賊の銃殺時にしか用いられない銃器であり、実用性以上に象徴的な存在としての意味が大きかった。
- ^ ノッチ部分を切削する事でシリンダーが肉薄となり、発射時の圧力に耐えられず穴が開いてしまう事故を防ぐために、段差が付けられたシリンダー構造も、Nagantから二十六年式拳銃に継承された特徴であり、両者の外見を良く似たものとしている。
- ^ a b 二十六年式拳銃用の9mmx22R弾薬諸元(サイズ)は以下[17]の通り
- 全長 30.47 mm
- 莢長 21.85 mm
- 弾径 9.10 mm
- 莢頭外径 9.52 mm
- 莢後外径 9.80 mm
- 莢縁外径 11.10 mm
- 莢縁厚 0.80 mm
- ^ なお、三八式歩兵銃をはじめとする各種6.5 mm口径の火器(メトフォード式腔線)においても、弾径6.7 mmに対して山径6.5 mm・腔線深さ0.15 mmとされていた。
- ^ 19 - 20世紀のフランスでは、小銃用銃身を製造した際に、かなりの割合で発生していた不合格品を用いて拳銃用の銃身を製造していたため、拳銃の口径は小銃の口径に合わされていた。この過程でフランス軍用小銃に用いられていた腔線深さ0.2 - 0.15 mmという数値が輸入された。
- ^ 例として、現代で最も一般的な拳銃弾である9x19mmの弾頭と銃身内のサイズは下記の通りであり、前方へのガス漏れを防ぐために銃身内径より弾頭の外径が若干大きめに作られている。
- 弾径:9.03 mm
- 山径:8.82 mm
- 谷径:9.02 mm
- 腔線深さ:0.1 mm
- ^ 米国のユーザ[18][出典無効]によれば、二十六年式拳銃に.38 S&Wの薬莢底部を削って改造した弾薬を用いており、弾頭は.38 S&Wのものをそのまま流用しているという。.38 S&Wの弾径は.361インチ (9.17 mm) と、二十六年式拳銃用の9mmx22R弾薬のそれ (9.10 mm) よりも若干大きいが、二十六年式拳銃はライフリングの谷径が9.30 mmもあるため問題なく発射でき、初速183 m/s(弾頭重量9.5 g 160 J≒.32 S&Wと同程度)と、オリジナルの9mmx22R弾薬より良好なパフォーマンスを示しているという。
- ^ 11 mm Mle 1873弾薬は、二十六年式拳銃が採用される4年前に改修されてMle 1873/90弾薬となっており、エネルギー値は2倍近くまで強化されていたが、二十六年式拳銃にはこの改修が反映されることはなく、終戦まで使用され続けた。“豚と二十六年式拳銃”(後述)のエピソード[要出典]など、日露戦争の頃から低威力な拳銃として認識されており、二十六年式拳銃の採用からわずか8年後に登場した南部式自動拳銃は強力な拳銃と認識されていた(ただし、南部式は軍用としては弱装な分類になるがエネルギーは二十六年式拳銃の3倍近い)。
- ^ 9mmx22R弾薬(小銃薬または小粒薬(共に黒色火薬)を使用)と、MAS 1873拳銃に使用された11 mm Mle 1873およびMle 1873/90弾薬(共にN火薬(黒色火薬)を使用)、その後継となったLebel M1892用の8mm/92弾薬(N火薬またはB火薬(無煙火薬)を使用)等のフランス軍用拳銃弾薬のエネルギー値を比較すると下記のようになる。
- 弾重 9.8 g, 11.7 g, 10,6 g, 7.8 g
- 薬量 0.6 g, 0.65 g, 0,80 g, 0.79 g(N) または 0.3 g(B)
- 初速 150 m/s, 130 m/s, 190 m/s, 225 m/s
- エネルギー 111 J, 98.1 J, 196.2 J, 196 J
- 51 Navy 260 J前後 幕末期の9 mm口径前装式拳銃
- .44 Russian 420 J 前制式のS&W No.3用の弾薬
- .41 Rimfire 70 J デリンジャー用の弾薬
- .32 S&W 126 - 156 J 桑原製軽便拳銃用の弾薬
- .38 S&W 240 - 280 J 9mmx22Rとほぼ同寸の弾薬
- ^ 日露戦争に際しては、ロシア軍からの鹵獲弾薬のなかからダムダム弾(軟頭弾・ソフトポイント弾)が発見され、これに日本軍が抗議しているが、日本軍将校が私物で携行したモーゼルC96用弾薬として、ダムダム弾が市販されている事が判明したとして、注意を喚起した文書も残されている[19]。
- ^ しかしながら十四年式拳銃(南部式自動拳銃)は高価であり、大型拳銃の割にはモーゼルC96の性能に敵わず、輸入品との競争において中途半端な存在だった。特に清朝末期からモーゼルC96が輸入され、国内でもコピー生産が行われるほど人気の高かった中国では、日本側の売り込み努力にもかかわらず二十六年式拳銃や十四年式拳銃の人気はイマイチだった。1935年(昭和10年)に日本が成立させた冀東防共自治政府の保安隊では、日本が代弁しての兵器購入に際してまでモーゼルの購入を要請し、不快感を示した日本軍側が「小銃で充分だろう」「二十六年式や十四年式なら在庫があるが、モーゼルなんぞない」といった反応を示したものの、結局は大蔵商事(泰平組合の出資企業で大陸への武器輸出を長年扱っていた)を経由して、モーゼルの輸入を手配する事になった、という顛末が記録されている[21]。
- ^ 米国における二十六年式拳銃は、アンティーク的な指向の銃器ではあっても、1899年1月1日以前に製造され、アンティークとして法的に現代銃器に分類されない存在ではない。BATFによれば、製造日を示す刻印が銃器本体に残されていなければアンティークとは認定されないため、製造番号以外の製造記録が刻印されていない二十六年式拳銃は認定の対象外となるためである[29][信頼性要検証]。
出典
編集- ^ a b c Takano 2003, p. 20.
- ^ a b c d e 松木直亮「26年式及南部式拳銃射撃表送付の件」『陸軍省大日記』大正12年。C02030552600 。2009年9月5日閲覧。
(画像資料より実包重量/弾頭重量・初速の数値を抜粋し、エネルギー値を再計算)
- 9 mm(二十六年式) 11.5 g/9.8 g 150 m/s 111 J
- 7mm南部弾 7 g/3.65 g 280 m/s 144 J
- 8mm南部弾 9 g/6.5 g 315 m/s 324 J
- 7.65x21mm 6 g 365 m/s 400 J ←8 mm南部弾とほぼ同寸
- 7.63x25mm 5.6 g 430 m/s 508 J (5.5 g 525 m/s 760 J)
- 9x19mm 8 g 360 m/s 518 J (7.45 g 390 m/s 570 J)
- 9x25mm 8.3 g 450 m/s 840 J
- .45 ACP 15 g 250 m/s 477 J (13 g 330 m/s 702 J)
- ^ Takano 2003, p. 19.
- ^ a b “RELOADING DATA: 9mm JAPANESE REVOLVER” (PDF). Midway Arms, Inc.. 2009年9月5日閲覧。
- 弾径: 9.017 mm (.355in)
- 弾重: 9.721 g (150 gr)
- 薬量: 0.194 - 0.24 g (3.0 - 3.7 gr)
- 弾速: 166.1 - 194.2 m/s (545 - 637fps)
- エネルギー: 135 - 184 J
- ^ 陸軍歩兵中佐児島「蟹目3番形ヒストル銃其他代価の受取方申入」『陸軍省大日記』明治13-04-29。C04029053800 。2009年9月8日閲覧。
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- ^ 陸軍省「1、兵器払下の件」『陸軍省大日記』明治44年。C03023014400 。2021年2月18日閲覧。
- ^ 陸軍省「第4号 泰平組合 兵器弾薬払下の件」『陸軍省大日記』明治41年。C03022932100 。2021年2月18日閲覧。
- ^ 陸軍省「第2号 泰平組合 拳銃並同実包払下の件」『陸軍省大日記』明治41年。C03022948600 。2021年2月18日閲覧。
- ^ “日露戦争講演───見えない「精度」に投資できなかった近代日本───”. 2011年7月7日閲覧。[信頼性要検証]鈴木貫太郎は左脚付根・左胸・左頭部を銃撃されたが、即死せず意識もあったが、医師の手当て中には一時心停止状態となっている。頭部に入った弾丸は頭蓋骨を貫通しているため、頭部の脳幹を撃てば充分に即死させられる能力があったとも考えて良い。なお、本講演中には下記のような事実誤認があるが、内容は概ね正しいため指摘の上で出典とした。[独自研究?]
- ^ “The Pre-1899 Antique Guns FAQ”. 2020年1月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年9月8日閲覧。 “any firearm with a frame or receiver that actually made before Jan. 1, 1899 is legally "antique" and not considered a "firearm" under Federal law. This refers to the actual date of manufacture of the receiver/frame, not just model year or patent date marked.”
参考文献
編集- Takano, Turk「日本軍の拳銃たち」『Gun』第42巻第13号、国際出版、2003年12月、8-21頁。
関連項目
編集- 大日本帝国陸軍兵器一覧
- ハートフォード - 現在、本銃を精密モデルガンとしてモデルアップしている唯一のメーカー。
- ニューナンブM60 - 戦後日本で開発された国産回転式拳銃。