九條今日子
九條 今日子(くじょう きょうこ、1935年10月22日 - 2014年4月30日[1])は、日本の女優、演劇、映画プロデューサー。東京都麻布出身。女優時代の芸名は九条映子(九條映子)。本名:寺山 映子(てらやま えいこ)。1963年から1970年まで寺山修司と婚姻関係にあった。
くじょう きょうこ 九條今日子 | |
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本名 | 寺山 映子(てらやま えいこ) |
別名義 |
九条映子 九條映子 |
生年月日 | 1935年10月22日 |
没年月日 | 2014年4月30日(78歳没) |
出生地 | 日本 東京府東京市麻布[1] |
職業 | 女優、演劇・映画プロデューサー |
人物
編集- 三輪田学園中学校・高等学校卒業後、九条映子の名で松竹歌劇団の舞台でデビュー。その後、松竹映画に移り、野村芳太郎監督の映画『黄色いさくらんぼ』(1960年)などに出演した[1]。
- 1963年4月寺山修司と結婚、引退。主婦業中心の生活となり、しばらく芸能界から遠ざかる[2][3]。
- 1967年に寺山修司、横尾忠則らが「演劇実験室・天井桟敷」を創立し、九條は製作を担当。また、映画の製作も行った[1]。
- 1970年に寺山と離婚した(但し、寺山の姓のまま)。1983年に寺山が死去した後は、寺山作品の著作権管理を担当し、全国各地で講演を行った。近年では2009年に弘前学院大学で講演を行った。
- 有限会社テラヤマ・ワールドの代表取締役を務めた。
- 三沢市寺山修司記念館名誉館長。三沢市観光大使。
- 2014年4月30日、肝硬変による食道静脈瘤破裂のため東京都内の自宅で死去[4]。78歳没。
映画
編集- 有楽町0番地(1958年、松竹) - 出演
- 明日をつくる少女(1958年、松竹) - 出演
- 新家庭問答(1958年、松竹) - 出演
- 顔役(1958年、松竹) - 出演
- 花嫁の抵抗(1958年、松竹) - 出演
- 悪女の季節(1958年、松竹) - 出演
- 体当りすれすれ娘(1959年、松竹) - 出演 ※主演
- 素晴らしき十九才(1959年、松竹) - 出演
- 三人姉妹(1959年、松竹) - 出演
- 三羽烏三代記(1959年、松竹) - 出演
- 広い天(1959年、松竹) - 出演
- 幸福な家族(1959年、松竹) - 出演
- 空かける花嫁(1959年、松竹) - 出演
- 花嫁雲にのる(1959年、松竹) - 出演
- どんと行こうぜ(1959年、松竹) - 出演
- 番頭はんと丁稚どん(1960年、松竹) - 出演
- 二度とないぞ青春は(1960年、松竹) - 出演
- 続番頭はんと丁稚どん(1960年、松竹) - 出演
- 親バカ子バカ(1960年、松竹) - 出演
- 若手三羽烏 女難旅行(1960年、松竹) - 出演
- 銀座のお兄ちゃん挑戦す(1960年、松竹) - 出演
- 禁男の砂 真夏の情事(1960年、松竹) - 出演
- 乾いた湖(1960年、松竹) - 出演
- 黄色いさくらんぼ(1960年、松竹) - 出演
- しかも彼等は行く(1960年、松竹) - 出演
- 恋とのれん(1961年、松竹) - 出演
- 続々番頭はんと丁稚どん(1961年、松竹) - 出演
- はったり青年紳士(1961年、松竹) - 出演
- 田園に死す(1974年、人力飛行機舎・ATG) - 製作
- 疱瘡譚(1975年) - 製作
- 審判(1975年、人力飛行機舎) - 製作
- 消ゴム(1977年、人力飛行機舎) - 製作
- 書見機(1977年、人力飛行機舎) - 製作
- 影の映画 二頭女(1977年、人力飛行機舎) - 製作
- 一寸法師を記述する試み(1977年、人力飛行機舎) - 製作
- 上海異人娼館 チャイナ・ドール(1981年、アルゴス・フィルム・人力飛行機舎) - 製作
- さらば箱舟(1984年、ATG・人力飛行機舎・劇団ひまわり) - 製作
- へんりっく 寺山修司の弟(2009年、ワイズ出版) - 出演
著書
編集- 回想・寺山修司 百年たったら帰っておいで (角川文庫)
- ムッシュウ・寺山修司(ちくま文庫)
- 寺山修司・斎藤慎爾の世界―永遠のアドレッセンス
ほか
九條を扱った作品
編集- 寺山修司 彼と私の物語 -九條今日子の告白 - 著:青目海
出典
編集- ^ a b c d 九條今日子 死去のお知らせ 三沢市寺山修司記念館
- ^ 九條今日子『寺山修司のラブレター』KADOKAWA、2015年4月30日、61頁。ISBN 978-4-04-102831-5。
- ^ “プロデューサー・九條映子”. 天井桟敷新聞: p. 2. (1967年8月1日)
- ^ 演劇・映画プロデューサーの九條今日子さんが死去 寺山修司の元妻