中津市学校
明治時代の洋学校
中津市学校(なかつしがっこう[1])は、明治時代に小倉県(後に福岡県、大分県)中津(現在の大分県中津市)にあった洋学校である。
沿革
編集設立
編集福沢諭吉が旧中津藩藩主の奥平昌邁に必要性を説き[2]、共鳴した昌邁が家禄の5分1にあたる毎年1000石を出資して、大手屋敷と呼ばれた中津藩家老生田家邸に1871年(明治4年)11月に開校した[3][4]。『学問のすゝめ』は、本校の開設に際して、諭吉が学問の必要性を示すために記した小冊子が元である[2][3]。諭吉は本校に対して人的支援も行っており、開校時には慶應義塾から校長として小幡篤次郎、教師として松山棟庵が赴任している[2]。
最盛期と閉校
編集本校の最盛期であった1873年(明治6年)から1876年(明治9年)には、生徒数は600名を数える西日本有数の洋学校であったという。しかし、西南戦争や、学制の整備に伴う公立学校の充実の影響で徐々に衰退し、1883年(明治16年)に閉校した[4]。
遺構
編集かつて生田家の門であった中津市学校の校門は、その後、中津市立南部小学校の校門として利用された。1972年(昭和47年)に移築され、1988年(昭和63年)には老朽化のため解体されたものの、2000年(平成12年)から場所を移して復元工事が行われ、2001年(平成13年)3月に竣工している[4]。
歴代校長
編集関連項目
編集脚注
編集参考文献
編集- 西澤直子「中津市学校に関する考察」、近代日本研究 Vol.16, (1999. ) , p.65- 140 , KOARA AN10005325-19990000-0065