中川久昭
江戸時代末期の豊後岡藩藩主 (1820-1889)
中川 久昭(なかがわ ひさあき)は、豊後岡藩の第12代藩主。
時代 | 江戸時代後期 - 末期(幕末) |
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生誕 | 文政3年4月4日(1820年5月15日) |
死没 | 明治22年(1889年)11月30日[1] |
改名 | 茂丸、大蔵(幼名)、久昭 |
官位 | 従五位下、修理大夫、従四位下 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 豊後岡藩主→岡藩知事 |
氏族 | 藤堂氏→中川氏 |
父母 |
父:藤堂高兌、母:不詳 養父:中川久教 |
兄弟 | 藤堂高猷、久昭 |
妻 | 正室:加藤泰済の娘・栄子(中川久教の養女) |
子 | 久成、(板倉)久知(次男)、武夫、娘(稲葉正善正室)、娘(細川行真正室のち小野某室) |
略伝
編集文政3年(1820年)4月4日、伊勢津藩主・藤堂高兌の次男として生まれる。天保11年(1840年)12月6日、第11代藩主・中川久教の死去により久教の養女・栄子の婿養子として跡を継ぎ、同年12月28日には従五位下、修理大夫に叙任された。
幕末の動乱の中で岡藩は尊王派の勢力が大きかったが、親徳川家の藤堂家から養子として入った久昭は天保12年(1841年)に柳井藻次郎、小河一敏ら尊王思想家を岡藩の中枢から排斥した(岡藩七人衆の変)。後に小河は真木保臣らと結託して寺田屋騒動にも関与し、久昭に対しても尊王を訴えたが、久昭は動乱を傍観するのみにとどまった。また、藩でも大火や風雨による被害が相次ぎ、藩財政は困窮した。
慶応4年(1868年)3月11日、上洛した。明治2年(1869年)2月18日、駿府への派兵の遅れから謹慎を命じられた。同年6月19日、版籍奉還を行い、知藩事に就任した。同年9月23日、隠居し、長男の久成に家督を譲った。明治22年(1889年)11月30日に死去した。享年70。