中島 守利(なかしま もりとし、1877年明治10年)10月15日[1] - 1952年昭和27年)1月28日[2])は、日本の実業家政治家衆議院議員東京府南葛飾郡新宿町長

中島 守利
なかしま もりとし
東京府参事会員当時の肖像(36歳)
生年月日 1877年10月15日
出生地 日本の旗 日本 東京府南葛飾郡新宿町
没年月日 (1952-01-28) 1952年1月28日(74歳没)
出身校 勝鹿高等小学校
前職 東京府会議員
所属政党立憲政友会→)
日本自由党→)
民主自由党→)
自由党
称号 従五位
勲三等瑞宝章

選挙区 (東京府第15区→)
(東京府第6区→)
旧東京1区→)
旧東京6区
当選回数 8回
在任期間 1920年5月10日 - 1934年3月26日
1946年4月11日 - 1952年1月28日
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中島守利

経歴

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東京府[1][2]南葛飾郡新宿町[3](現東京都葛飾区新宿)で、農業[3]・中島藤左衛門の長男として生まれる[4]。5歳で勝鹿小学校(現在の葛飾区立新宿小学校)に入学し、13歳で同高等小学校を卒業[5]。独学で学問を修め[1]、17歳で[6]新宿郵便局長に就任[1][2]。その後、新宿町長、東京府会議員、同参事会員、同郡部会副議長、同農会議員、同教育会議員などを歴任[2]

1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で東京府第十五区から立憲政友会所属で出馬して当選[2]。その後、第18回総選挙まで連続5回の当選を果たしたが、1928年京成電車疑獄事件に連座。 1931年9月30日の一審では懲役5ヶ月が言い渡されると「(同時に裁判にかけられていた)三木君より重く、懲役五ヶ月というのは重すぎると思う」として控訴[7]、 上告を続けたが1934年3月26日、大審院において上告が棄却され東京控訴院の判決が確定したため衆議院議員を退職した[1][2][8]。これにより勲四等第一回国勢調査記念章大礼記念章(大正及び昭和)を褫奪された[9]。この間、立憲政友会総務委員、同顧問を務めた[2]

戦後、1946年4月、第22回衆議院議員総選挙東京都第1区から日本自由党所属で出馬して当選[2]。以後、東京都第6区23回24回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算8期務め、在任中に死去した[2]。この間、衆議院地方行政委員長、日本自由党代議士会長、同総務、民主自由党顧問などを歴任した[2]

実業界では、北越木材専務取締役、白鬚橋専務取締役、東亜火災保険常務取締役、多摩川水力電気取締役社長などを務めた[2]

1952年1月28日、特旨をもって従五位に叙せられ、勲三等瑞宝章を授与された[10]

伝記

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  • 中島守利先生謝恩会編『中島守利先生小伝 : 郷土の大先覚』中島守利先生謝恩会、1952年。

親族

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史跡

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出身地である現葛飾区新宿2丁目の日枝神社山王保育園内には中島守利の銅像が建てられている。

脚注

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  1. ^ a b c d e 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』435頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』444頁。
  3. ^ a b 『大衆人事録 昭和3年版』ナ93頁。
  4. ^ 『人事興信録』第14版 下、ナ49頁。
  5. ^ 『増補 葛飾区史 下巻』984頁
  6. ^ 『葛飾区史跡散歩(東京史跡ガイド22)』114頁
  7. ^ 懲役四月の三木武吉代議士は憤慨『東京朝日新聞』昭和6年10月1日(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p464 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  8. ^ 『官報』第2170号、昭和9年3月29日。
  9. ^ 官報 1934年07月03日 四四頁
  10. ^ 『増補 葛飾区史 下巻』1003頁
  11. ^ a b 『人事興信録』第14版 下、ナ49頁、ヤ130頁。

参考文献

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  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056
  • 入本英太郎・橋本直子『葛飾区史跡散歩(東京史跡ガイド22)』学生社、1993年。ISBN 9784311419720
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 東京都葛飾区編『増補 葛飾区史 下巻』、東京都葛飾区、1985年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第14版 下、1943年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、1927年。
議会
先代
山口好一
  衆議院地方行政委員長 次代
前尾繁三郎