三浦 乾也(みうら けんや、1821年4月5日(文政4年3月3日)[1]1889年明治22年)10月7日[2][3])は、幕末から明治時代に活躍した陶工造船家、元仙台藩士である。号は天禄堂。通称は陶蔵。幼名は藤太郎(豆太郎)。

経歴・人物

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芝居小屋の笛吹き住田清七と町屋の娘すみとの間の婚外子として江戸に生まれる[4][5][6]。生後まもなく多摩川の農家へ里子に出され、三浦姓となる[1]。6歳の時に伯母とその夫井田吉六に引き取られ[5]、12歳の時に吉六から陶法を学ぶ[7]。17歳の時に吉六と共に[8]五代目乾山(尾形乾山)と名乗った吉原の名手西村藐庵にしむらみょうあんの世話になった[5]。19歳の時に乾也の号を許された[8]。資料などでは六代目乾山と呼ばれることがあるが本人は自称せず、弟子の浦野乾哉けんせいが乾山を継ぎこれが七代とされ、そこで乾山は途絶えている[6][7][9]。弟子は他に乾セけんぱ(本名塚本寅吉。乾也の没後、乾也を名乗った)、升太郎(乾升)がいた[6]

25歳の時に深川に住む[10]大津絵画家石井仏心の養子となり、一時は石井乾也とも名乗った[11]。石井家には元々後継ぎがおらず親戚の姉妹2人を養子にとっており、その姉の「おえい」が乾也と結婚する[6]も、折り合いが悪く家を出る。1848年嘉永元年)に長女が生まれ、母を偲んですみと名づけたが3歳で病死する[1]

1853年嘉永6年)、黒船来航に際して陶工としての活動をやめ[1]、海防の建白書や船の模型図を幕府に献上したところを阿部伊勢守の目にとまり[5]1854年(嘉永7年)8月から長崎ヘルハルドゥス・ファビウスヤン・カレル・ファン・デン・ブルークより勝海舟らと共に造船術、金属加工技術などを学び、ガラスの製造法、溶鉱炉反射炉大砲技術なども長崎にいる間に習得した[1]。翌1855年(嘉永8年)江戸に戻る[10]1856年安政3年)1月には仙台に招聘されて総棟梁として帆船開成丸の建造に携わり[12][13]、藩から士分を与えられ仙台藩士となる[6]。仙台にいる短い間に堤焼の陶工・庄子源七郎義忠に陶芸を教え、1858年(安政5年)11月に三浦乾馬を名乗ることを許した[1][14]

仙台と江戸を往復する生活をしていた乾也は1859年安政6年)、正式な暇乞いをせず藩士の資格を残したまま江戸に帰り、親交のあった鈴木鵞湖の次男・鈴木貞治郎(後の石井鼎湖)を養子にとる[1]1861年文久元年)に次女のよねが生まれ、旅に出ていた叔父の井田吉六が病気の体で江戸に戻り看病するようになるが吉六はまもなく亡くなる[1]1862年(文久2年)、その頃には関係が良くなっていた石井仏心が亡くなった際に当時16歳の鼎湖が石井家の家督を継ぐことになり、乾也はその後見人となる[10]

1868年慶応4年)7月に朝敵であるとの嫌疑から検挙され1カ月半ほど投獄される[6]1869年明治元年)12月、辞職を申し出に仙台を訪れるが、新政府軍に敗北し藩政の実権が反対勢力に握られていたことで思いがけず改易に処されて藩士としての身分を失い、それきり仙台藩との縁が切れることになる[1]明治維新以来の時勢の変化によって後援者を失っていたところ、梶山良助の招きで1870年(明治3年)に相模国曽屋村十日市場(現・秦野市四ツ角付近)に窯を開き、趣味陶器・日用陶器のほかに工部省の注文で日本で初めて電信用のがいしを製造した[11][15][8]1871年(明治4年)、乾也は横須賀にがいしを作るための窯を作るが、事業には失敗した[1]。その後もレンガや輸出用陶磁器などでも失敗する。1872年(明治5年)に妻のえいが亡くなり、娘のよねは石井家に引き取られる。

事業の補填は石井家の資産によって補っていたが、これにみかねた石井鼎湖は実父の鈴木鵞湖に相談し、鵞湖は乾也に陶工として専念するよう諭す[1]1875年(明治8年)12月25日[16]、深川にいた乾也は向島へ移って長命寺の境内に窯を開き[17]、亡くなるまで陶工として活動した[5]。この明治期の作品が陶工乾也として伝わるほとんどの作品である[6]。没後は築地妙泉寺に埋葬される[3]

乾也は体格が大きく酒をよく飲み、最期まで髷を結って通した[6]

代表作

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  • 「鵞鳥(がちょう)図額」東京国立博物館収蔵[18]

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 関善内『堤焼 : 乾也と乾馬を中心として』高山書店、1970年、6,12,29,46,53,63頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12666043/1/13?keyword=%E4%B9%BE%E4%B9%9F 
  2. ^ 平凡社 編『世界美術全集 別巻第16巻』平凡社、1931年、82頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1242210/1/130 
  3. ^ a b 関根只誠『名人忌辰録 下』吉川半七、1894年、28頁https://dl.ndl.go.jp/pid/992152/1/30 
  4. ^ 常石英明『日本陶器の鑑定と観賞』金園社、1968年、74頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2517369/1/61 
  5. ^ a b c d e 吉田武三『士魂の群像』富山房、1980年7月、160頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12252704/1/88 
  6. ^ a b c d e f g h 陶磁 第7巻 第4号』東洋陶磁研究所、1935年10月、三浦乾也13-17、関東諸窯10-11頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1516096/1/29 
  7. ^ a b 江東区史 全』江東区、1957年、1499頁https://dl.ndl.go.jp/pid/3041820/1/782 
  8. ^ a b c 東京府勧業課 編『東京名工鑑』有隣堂、1879年12月、8-9頁https://dl.ndl.go.jp/pid/900133/1/243 
  9. ^ 陶磁 7(4)』東洋陶磁研究所、1935年10月、2頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1516096/1/24?keyword=%E4%B9%BE%E4%B9%9F 
  10. ^ a b c 石井柏亭 編『鵞湖及鼎湖』石井満吉、1919年、1-50頁https://dl.ndl.go.jp/pid/960706/1/8 
  11. ^ a b 中野敬次郎『小田原近代百年史』八小堂書店、1982年10月、89-104頁https://dl.ndl.go.jp/pid/9538954/1/49 
  12. ^ 黒須潔 2022, p. 5-6.
  13. ^ 佐藤大介 2022, p. 39.
  14. ^ デヴィッド・ヘイル『東北のやきもの』雄山閣出版、1974年、307-313頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12729146/1/157?keyword=%E4%B9%BE%E4%B9%9F 
  15. ^ 増田武夫『これが秦野だ』近代文芸社、1982年9月、172-179頁https://dl.ndl.go.jp/pid/9539505/1/90 
  16. ^ 墨田誌考 上』墨田区企画部広報課、1975年、219頁https://dl.ndl.go.jp/pid/9640962/1/115?keyword=%E4%B9%BE%E4%B9%9F 
  17. ^ 小島惟孝『墨田区史跡散歩』学生社、1979年6月、118-119頁https://dl.ndl.go.jp/pid/9641663/1/63?keyword=%E4%B9%BE%E4%B9%9F 
  18. ^ コトバンク, 矢部良明「三浦乾也」『日本大百科全書(ニッポニカ)』.

参考文献

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  • コトバンク - 『日本大百科全書(ニッポニカ)』、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、『デジタル大辞泉』、『精選版 日本国語大辞典』、『世界大百科事典 第2版』: “三浦乾也とは”. コトバンク. 2022年12月1日閲覧。
    • 矢部良明「三浦乾也」『日本大百科全書(ニッポニカ)』
    • 「三浦乾也」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社
    • 「三浦乾也」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
    • 「三浦乾也」『美術人名辞典』(思文閣
  • 佐藤大介, 黒須潔, 井上拓巳『仙台藩の洋式帆船開成丸の航跡 : 幕末の海防構想と実践の記録』東北大学災害科学国際研究所 歴史文化遺産保全学分野、2022年。hdl:10097/00134567ISBN 9784991180279https://tohoku.repo.nii.ac.jp/records/137183