リッキー・リー・ガトームソンRickey Lee Guttormson, 1977年1月11日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手投手)。

リック・ガトームソン
Rick Guttormson
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州トーランス
生年月日 (1977-01-11) 1977年1月11日(47歳)
身長
体重
182 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1997年 MLBドラフト22巡目
初出場 NPB / 2005年5月22日
KBO / 2009年4月7日
最終出場 NPB / 2008年9月28日
KBO / 2009年9月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴

編集

プロ入り前

編集

アナコルテス高校卒業後、ワシントン州リンウッドのエドモンズコミュニティ大学に入学する。

パドレス・マリナーズ時代

編集

1997年7月のMLBドラフトにて、サンディエゴ・パドレスに22巡目、全体の680位で指名され入団する。入団後はマイナーリーグインディペンデントリーグ(セミプロ)の球団を渡り歩くことになる。

2004年までMLBでのプレー経験がなかったが、この年先発からクローザーへ転向し25セーブと活躍、さらに同年冬に参加したベネズエラのウィンターリーグでも活躍し、2005年シアトル・マリナーズのスプリングキャンプに招待選手と招かれることになった。初めてMLBでプレーするチャンスであったが、40人ロースター枠には残れず、AAAへ降格となる。

しかし、この活躍に目をつけていたヤクルトスワローズが、当時チームの先発陣に怪我などが相次いだこともあり、ガトームソンと契約を結ぶことを決めた。

ヤクルト時代

編集

2005年にヤクルトに入団後、まずは二軍で登板したが、4試合で防御率8.25と散々な成績であった。ところが、一軍先発陣の台所事情が火の車であったことから一軍に昇格。すると16試合の先発で8勝5敗、防御率4.18の成績をあげ、見事先発ローテーション投手としての役割を果たした。完投はなかったが、打者として中日ドラゴンズ川上憲伸から本塁打を放っている。

2006年5月25日、対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(明治神宮野球場)にて、プロ野球史上72人目(83回目、交流戦では初)となるノーヒットノーランを達成。許したランナーは遊撃失策(1回)と四球(5回)による2人。マイナー時代を含めて自身初の完封がノーヒットノーランとなった。しかしこの快挙の翌日には、外国人枠の関係で採用していた変則ローテーションのためディッキー・ゴンザレスと入れ替わりに登録を抹消されている。

結局、勝利数は2桁には届かなかったものの、防御率はリーグ6位の2.85を記録した。変則ローテーションに不満を持っていた為、このオフの契約交渉でヤクルトに2年総額7億という莫大な要求を突きつけ、交渉決裂。自由契約選手となる。また、この年も打者として広島の林昌樹から本塁打を放っている。

ソフトバンク時代

編集

2006年12月14日、福岡ソフトバンクホークスが獲得を発表。2年契約で、出来高を含み2億5000万円程度の契約と見られている。

2007年3月9日、その日オープン戦初登板を予定していたが、朝食のチーズをナイフで切っていたところ、誤って自分の指を切り、登板を回避するというアクシデントを起こしたため、王貞治監督から厳重注意を受けた。

8月10日、NPB根來泰周コミッショナー代行は、ガトームソンが7月13日の対千葉ロッテマリーンズ13回戦で行われたドーピング検査で禁止薬物(フィナステリド)に陽性反応を示した事、それに伴い本人に対して同日より20日間の出場停止処分、所属球団のソフトバンクに対して制裁金750万円を科した事を発表した[1]。2007年より本格的に開始された日本プロ野球でのドーピング検査で違反者が出た初めての事例。これを受けて球団は、ガトームソンは2007年2月に行われたキャンプでのドーピング説明会で球団側にフィナステリドを含む育毛剤の服用を申請したが、球団がNPB側への照会を怠ったため服用を続けたと説明した。[2]その後の球団による聞き取り調査で、ガトームソンがヤクルト所属当時にフィナステリドが禁止薬物に該当するとの警告を受けていた事が確認されたことが発表された[3]。ちなみにフィナステリドは2009年1月1日に世界アンチ・ドーピング機構(WADA)の禁止リストから除外されている[4]

この年は5勝に終わり、右肩の故障を抱えているなどの事情もあり2年目の契約を残して解雇されることが濃厚と見られていたが、一転残留となった。

2008年のシーズン開幕当初は、故障したクローザー馬原孝浩に代わって起用されたが、ほどなくして先発に固定される。5月28日の対横浜ベイスターズ戦(新大分球場)では、投手では交流戦史上初となる場外ホームラン三浦大輔から左翼へ放った。 試合は雨天コールドとなりそのまま完投勝利。このまま好調で行くかと思った矢先の8月6日、ブルペンで投げ込み中に右足を痛めそのまま離脱(代わりに髙橋秀聡が登板)、9月に復帰したものの5勝7敗と、前年とほとんど同じ成績に終わった。このため、10月12日にジェイソン・スタンドリッジジェレミー・パウエルC・J・ニコースキーマイケル・レストビッチと共に戦力外通告を受ける。

韓国プロ野球時代

編集

2009年1月21日、起亜タイガースと契約。公式戦では13勝をあげ、チームの12年ぶりの韓国シリーズ優勝に大きく貢献した。だがシーズン終盤に球威が落ち、韓国シリーズで活躍できなかったことなどにより、球団の評価は低く2009年限りで解雇された。

フィリーズ時代

編集

2010年3月2日、フィラデルフィア・フィリーズとマイナー契約し、2005年以来5年ぶりにアメリカ球界へ復帰することになる。しかし、同月中に解雇となり、その後は野球と離れた仕事をしている。

プレースタイル

編集

常時150km/h近いストレートと切れのあるスライダーチェンジアップを投げる本格派投手。コントロールもよく四球もかなり少ない。また打撃も良く、NPBでは通算で3本の本塁打を放っている。

詳細情報

編集

年度別投手成績

編集




















































W
H
I
P
2005 ヤクルト 16 16 0 0 0 8 5 0 0 .615 418 97.0 102 9 30 3 3 62 0 1 46 45 4.18 1.36
2006 25 25 2 1 0 9 10 0 0 .474 698 173.2 145 9 38 3 7 127 3 1 62 55 2.85 1.05
2007 ソフトバンク 22 21 1 0 0 5 7 0 0 .417 590 143.0 138 10 28 1 9 89 2 0 62 56 3.52 1.16
2008 18 13 2 0 0 5 7 0 0 .417 426 100.0 104 11 35 5 4 51 0 2 48 45 4.05 1.39
2009 起亜 26 25 0 0 0 13 4 0 0 .765 667 161.1 149 15 46 2 8 95 61 58 3.24 1.21
NPB:4年 81 75 5 1 0 27 29 0 0 .482 2132 513.2 489 39 131 12 23 329 5 4 218 201 3.52 1.21
KBO:1年 26 25 0 0 0 13 4 0 0 .765 667 161.1 149 15 46 2 8 95 61 58 3.24 1.21
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

編集
NPB投手成績
NPB打撃成績

背番号

編集
  • 34 (2005年 - 2006年)
  • 43 (2007年 - 2008年)
  • 50 (2009年)

脚注

編集

関連項目

編集

外部リンク

編集