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{{政治家
| 人名 = 田中 義一
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| サイン = TanakaG kao.png
| 国旗 = JPN
| 職名 = 第26代 [[内閣総理大臣]]<br />第39代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]](総理兼任)
| 内閣 = [[田中義一内閣|田中内閣]]
| 就任日 = [[1927年]][[4月20日]]
| 退任日 = [[1929年]][[7月2日]]
| 元首職 =
| 元首 = [[昭和天皇]]
<!--
| 職名2 = 第39代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]](
| 内閣2 = 田中内閣
| 就任日2 = 1927年4月20日
| 退任日2 = 1929年7月2日
-->
| 国旗3 = JPN
| 職名3 = 初代 [[拓務大臣]](
| 内閣3 = 田中内閣
| 就任日3 = 1929年[[6月10日]]
| 退任日3 = 1929年7月2日
| 国旗4 = JPN
| 職名4 = 第39代 [[内務大臣 (日本)|内務大臣]](
| 内閣4 = 田中内閣
| 就任日4 = [[1928年]][[5月4日]]
| 退任日4 = 1928年[[5月23日]]
| 国旗5 = JPN
| 職名5 = 第14・16代 [[陸軍大臣]]
| 内閣5 = [[原内閣]]<hr/>[[第2次山本内閣]]
| 就任日5 = [[1918年]][[9月20日]] - [[1921年]][[6月9日]]<hr/>[[1923年]][[9月2日]]
| 退任日5 = [[1924年]][[1月7日]]
| 国旗6 = JPN
| その他職歴1 =
| 就任日6 = [[
| 退任日6 =
| 国旗7 = JPN
| その他職歴2 = 第5代 [[
| 就任日7 = [[
| 退任日7 = 1929年
}}
▲| 国旗8 = JPN
[[File:Giichi Tanaka wearing Sokutai.jpg|thumb|200px|[[即位の礼#昭和の即位の礼|昭和の即位の礼]]に際して[[束帯]]を着用した田中]]▼
▲[[File:Giichi Tanaka wearing Sokutai.jpg|thumb|200px|[[束帯]]を着用した田中]]
'''田中 義一'''(たなか ぎいち、[[1864年]][[7月25日]]〈[[元治]]元年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]〉 - [[1929年]]〈[[昭和]]4年〉[[9月29日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[政治家]]。階級は[[陸軍大将]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]]。[[金鵄勲章|功級]]は[[金鵄勲章|功三級]]。[[爵位]]は[[男爵]]。
[[陸軍大臣]]、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]、[[内閣総理大臣]]([[田中義一内閣|第26代]])、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]([[田中義一内閣|第42代]])、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]([[田中義一内閣|第45代]])、[[拓務大臣]]([[田中義一内閣|初代]])
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
13歳で[[萩の乱]]に参加。若いころは[[村役場]]の職員や[[小学校]]の教員を務めた後、20歳で[[陸軍教導団]]に入る。 === 軍人として ===
[[ファイル:Giichi Tanaka Rekidai Shusho tou Shashin.jpg|thumb|left|[[軍装]]を着用した田中]]
[[陸軍教導団]]で学んだ後、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](旧8期)、[[陸軍大学校]](8期)を経る。[[日清戦争]]に従軍、その後[[ロシア帝国|ロシア]]に留学した。ロシア留学時代は[[正教会|正教]]に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。
また、地元の[[連隊]]に入隊して内部から[[ロシア帝国陸軍|ロシア軍]]を調査した。このため、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。[[藩閥|長州閥]]の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の[[広瀬武夫]]と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。
[[日露戦争]]では[[満州軍 (日本軍)|満州軍]]参謀として総参謀長[[児玉源太郎]]のスタッフを務めた。戦後の[[1906年]](明治39年)に提出した『随感雑録』が[[山縣有朋]]に評価されて、当時陸軍中佐ながら[[帝国国防方針]]の草案を作成した<ref>岩波新書編集部編『日本の近現代史をどう見るか』2010年2月 67頁 (第3章「日清・日露戦争は日本の何を変えたのか」原田敬一) 岩波新書</ref>。
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当初、[[伊東巳代治]]と[[田健治郎]]の名前が挙がったが、両者ともかつて内紛で政友会を追われた経緯があり、これを辞退した。次に官僚出身ながら国民の人気がある[[後藤新平]]を迎えようとしたものの、後藤はかつて[[関東大震災]]後に自分が立案した[[帝都復興計画]]を政友会の反対で潰された経緯からこれも拒否、唯一就任に応じたのが田中であった。
[[1925年]](大正14年)4月7日、田中は宇垣陸相と会見して現役退役願いを提出<ref>「政友会後任総裁問題で退役を願い出る」『中外商業新報』1925年4月8日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編pp.386-387 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>([[治安警察法]]第5条により現役軍人は[[政治結社]]に加入できないため)。同年4月10日、[[予備役]]に編入した<ref>「いよいよ予備役編入」『大阪毎日新聞』1925年4月10日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.387 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。将来は[[元帥 (日本)|元帥]]ともいわれた田中であったが政界への転身を図り、[[高橋是清]]の後の[[立憲政友会|政友会]]総裁に就任した。
田中は就任の際、300万円の[[政治資金]]を持参金としたことから、陸軍機密費から出たものではないかとする[[陸軍機密費横領問題]]が浮上。告発を受けた東京地方裁判所検事局が取り調べを行ったが、[[1926年]](昭和元年)[[12月27日]]、証拠不十分で不起訴処分としている。なお、取り調べに携わっていた検事は、捜査途上で変死体となって発見されている<ref>機密費事件は証拠不十分で不起訴に決定『東京朝日新聞』昭和元年12月28日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p380-381 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。また、在郷軍人会を票集めに利用したとする疑惑もあった<ref group="注釈">『田中義一伝記』などはこれを否定するが、[[古島一雄]]の回想録によれば、軍人出身の田中がどこから票を集めるのかと問い質したところ、「俺は在郷軍人300万を持っている」と応えたと記していること、また政友会総裁就任に伴う和歌山県での在郷軍人会副会長退任演説で政友会が主張していた[[両税委譲]]の必要性を説くなど、遠回しに政友会へ支援を求める発言も行っている。</ref>。真相は不明であるが、在郷軍人会の育ての親である田中の政友会総裁就任及び対立する[[憲政会]](後に[[立憲民政党]])の軍縮政策が在郷軍人の[[投票行動]]に影響したのは間違いなく、高橋前総裁時代に出されていた軍部大臣の[[文官]]化論が就任直後の田中による「鶴の一声」で否定されるなど、党の政策が軍備強化・対外強硬路線へと転換する。
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=== 内閣総理大臣就任 ===
[[ファイル:Giichi Tanaka on the day he was appointed Prime Minister.jpg|サムネイル|1927年4月19日、総理決定の日、羽織袴姿の田中]]
{{see also|田中義一内閣}}
[[1927年]](昭和2年)3月、[[第1次若槻内閣]]のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった([[昭和金融恐慌]])。
若槻内閣は同年4月17日に総辞職を表明し、代わって[[立憲政友会]]総裁の田中が[[4月20日]]に組閣した。[[田中義一内閣|田中内閣]]には元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や[[枢密院 (日本)|枢密院議長]]などが肩を寄せ合い、大物揃いの内閣となった。
; 内閣の主な顔ぶれ
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* [[内閣書記官長]]:[[鳩山一郎]] → 後に自由党(政友会正統派の流れを汲む)総裁、民主党総裁、内閣総理大臣
[[大蔵大臣|蔵相]]に起用された高橋是清は全国で[[金融モラトリアム|モラトリアム]](支払猶予令)を実施し、金融恐慌を沈静化した。
==== 積極外交 ====
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==== 張作霖爆殺事件 ====
[[ファイル:Giichi Tanaka visiting the Imperial Palace wearing a top hat.jpg|200px|サムネイル|[[シルクハット]]の礼装姿で参内する田中(1929年7月)]]
同年6月4日に起きた[[張作霖爆殺事件]]に際して、帝国の国際的な信用を保つためにも容疑者を[[軍法会議]]によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなかった。
なお、この直後の6月8日、田中は[[上野駅]]で暴漢に[[短刀]]で襲撃されるも無事<ref>上野駅で暴漢に襲われる『東京朝日新聞』昭和3年6月9日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p381 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。犯人と張作霖爆殺事件との関連性はなかった<ref>襲撃犯人は変質者『東京日日新聞』昭和3年6月12日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p381 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
このことを野党に批判され、[[立憲民政党]]の[[中野正剛]]は「[[尼港事件]]の際に田中が「断じて臣節を全うす」と称して陸軍大臣の職を辞したことは国務大臣として責を負うた適例であったが、[[済南事件]]の責任を[[福田彦助|福田司令官]]に帰し、[[満洲某重大事件|満洲事件]]を[[村岡長太郎|村岡司令官]]に帰したことは厚顔無恥である」とした<ref name="nakanoseigo201"/>。この批判に対して田中は「この如き事に責任を負うたら総理大臣は何万居っても足らぬ」と反論豪語したが<ref name="nakanoseigo201"/>、中野は「政略出兵の責任を軍部に転嫁するような総理大臣がいたら日本帝国の[[正規軍|国軍]]は何百万人居っても足らないこととなる」とさらに糾弾した<ref name="nakanoseigo201">{{Cite book|和書
|author = [[中野正剛]]
|date = 1929年4月5日
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}}</ref>。
以上のように田中は軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたが、天皇に対してもその旨を奏上していた。にもかかわらず、事件から一年もかけたのちの1929年(昭和4年)6月27日に田中は最終報告として「関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であった」旨を[[昭和天皇]](以下「天皇」)に奏上した。真相追及や厳正
通説では天皇が怒ったため、田中は辞職を決意したとされている<ref name=":0" />。なぜ、これほど天皇が怒ったかについて釈然としない印象を持つ者も多く、秦郁彦は、日本軍人の関与の証拠はなく、他の犯人の証拠もないとしながら、河本を適当な理由で行政処分に付するといった、田中の上奏文の訳の分からなさを取り上げて、天皇の怒りを買ったのだろうとしている<ref name=":0" />。その上で、通説が定着したのは、[[鈴木貫太郎]]から子息の鈴木一がまた聞きして『天皇さまのサイン』に話を紹介し、それが天皇があの時は自分も若かったからと自ら反省したと、俗っぽく解釈されるようになったからとしている<ref name=":0" />。一方で、秦は、国会での政敵からの追及の他、関係者の厳正な処分の断念に至るまでに田中が陸軍で孤立していったことも紹介している<ref name=":0" />。通説が語るような内閣総辞職の経緯は、例えば『昭和天皇独白録』にも述べられているが、この著述は天皇の開戦責任が問題になりかねない終戦直後の時期に天皇の自己弁護のために纏められた性質を多分に持ち、この事件を「このとき内閣が総辞職したため、以降、天皇は立憲君主制の枠組みに従い、不本意であっても内閣の上奏をそのまま裁可することにした」という結論につなげる理由にしており、しばしば、そのおおもとが、天皇の戦争責任を否定しようとする側の者からの主張である点に注意を要する<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/af5af6a925e9ef8df5283addd05ef526f3aa3440 |title=『拝謁記』の張作霖爆殺事件における昭和天皇発言と定説との違い(坂東太郎) |access-date=2023-11-27 |publisher=Yahoo! |website=Yahoo!ニュース}}</ref>。
[[ファイル:Tanaka Giichi resignation.png|thumb|left|300px|内閣総理大臣の辞職願]]
{{Wikisource|田中義一内閣総理大臣の辞表}}
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狭心症の既往があった田中に、張作霖爆殺事件で天皇の不興を買ったことはやはり堪えた。退任後の田中は、あまり人前に出ることもなく塞ぎがちだったという。内閣総辞職から3ヵ月もたたない[[1929年]](昭和4年)9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。
そして、翌29日午前6時、田中は急性の[[狭心症]]により死去した{{Refnest|group="注釈"|田中が死亡したのが別宅であったことから、妾宅で[[腹上死]]したのではないかという憶測がある。『田中義一伝記』によるとこの女性は、入籍はしていないが田中を長年支えてきた女性であるという。これとは別に、[[自殺]]説がある。[[松本清張]]は『[[昭和史発掘]]』において、中島亀次郎「田中義一大将の切腹」(『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]臨時増刊 昭和の三十五大事件』1955年、所収)を引用し、田中の死について、一部で腹上死説、さらには自殺説が流布していることを紹介し、「田中の死が発表どおり狭心症の発作であったか、または自殺だったかは判断のしようがない」としている<ref>{{Cite|和書|author=[[松本清張]]|title=[[昭和史発掘]]|volume=3|chapter=「満州某重大事件」|series=[[文春文庫]]|publisher=[[文藝春秋]]|date=1978-08-25|pages=80-81}}</ref>。}}。{{没年齢|1864|7|25|1929|9|29}}。田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた[[藩閥|長州閥]]の流れが完全に途絶えた。墓所は[[多磨霊園]]。
昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても口を挟まないことを決意した<ref group="注釈">「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へることに決心した」『昭和天皇独白録』(文藝春秋、[[1995年]](平成7年))</ref>。
== エピソード ==
政治家としては厳しい評価の田中であるが、性格は気さくだった
* 田中が政友会総裁として遊説中、ある人物が田中に語りかけてきた。田中は「おう、ところで、親父さんは元気でやっとるかね」と言い、その人物は「はい、おかげさまで」と返した。その場を離れてしばらくして、田中の側近が「総裁とあの御人はどういう関係なのですか?」と尋ねると「いや、全く知らん奴だよ」と田中は答えた。唖然とする側近に向かって田中は「どんな人間だって父親はいるだろう。その父親の体調を気遣ったまでさ」と笑いながら言ったという。
* 田中内閣が発足したのち、内閣書記官長の[[鳩山一郎]]は、当時流行りはじめたゴルフに夢中になり、閣議を欠席するほどだった。他の閣僚が田中に苦言を呈したが、田中は「そうか、ゴルフちゅうもうんは、そげん面白いもんかのう」と言って、鳩山には何も注意しなかった。
* 対中国積極外交を主張する奉天総領事時代の[[吉田茂]]は、外務次官のポストを得ようとしたが、田中内閣に拒絶され、スウェーデン大使となった。吉田は首相官邸に行き、田中に長時間にわたり次官の自己推薦を行った。その間、田中はひどくつまらなそうに吉田の話を聞いていた。吉田は「これで次官は棒に振ってしまったが、せいせいした」とスウェーデンに発つ準備をしていた数日後、田中から電話があり「ところで吉田君、次官になってもらうよ、まさか異論はないだろうね」といわれ、吉田は次官就任を快諾した。
* [[タレント]]の[[タモリ]]は、生誕時には田中を尊敬していた祖父によって「義一」という名をつけられる予定であった。しかし画数の多い「義」が上に来ると頭でっかちな子になるとされ「一義(森田一義)」となったとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/news/detail/148100/|title=タモリ、本名の由来に驚きの声「不思議なご縁」|work=[[ザテレビジョン]]|date=2018-05-27|accessdate=2021-08-06}}</ref>。
== 親族 ==
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*** [[田中龍夫]] - 長男。[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員、[[山口県知事]]、[[衆議院議員]]、[[第1次岸内閣]]の官房副長官、[[第2次佐藤内閣]]の[[総理府総務長官]]、[[福田赳夫内閣]]の[[通商産業大臣|通産相]]、[[鈴木善幸内閣]]の[[文部大臣|文相]]などを歴任。
*** 田中政子 - 長女。陸軍中将[[橋本勝太郎]]の養女となる<ref name=takeuchi/>。
** (婚外)出口ふみ - [[群馬県]][[藤岡町 (群馬県)|藤岡町]]の川魚屋「富士川」の娘(1898-?) 。[[五番町]]の別宅に住み、一男四女をもうける<ref name=takeuchi/>。
*** 田中登米子 - 三女
*** (婚族)[[小澤太郎 (政治家)|小澤太郎]] - 三女の婿。[[台湾総督府]]官僚、元山口県知事、衆議院議員、参議院議員
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* [[1895年]](明治28年)[[11月18日]] - [[従軍記章#明治二十七八年従軍記章|明治二十七八年従軍記章]]<ref>『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。</ref>
* [[1901年]](明治34年)[[11月30日]] - [[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]<ref>『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。</ref>
* [[1906年]](明治35年)[[4月1日]] - [[功三級金鵄勲章]]<ref>[https://web.archive.org/web/20040423112026/http://www.geocities.jp/nakanolib/giten/kinshi2.htm 中野文庫 旧・金鵄勲章受章者一覧]</ref>
* [[1912年]](大正元年)[[8月1日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|韓国併合記念章]]<ref>『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。</ref>
* [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[記念章|大礼記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref>
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== 参考文献 ==
=== 史料 ===
* {{Cite web|和書| date=1929年6月18日| url=https://
* {{Cite web|和書| date=1937年8月24日| url=https://
* {{Cite web|和書| date=1939年2月9日| url=https://
* [[迪宮裕仁]](1939年){{国立公文書館デジタルアーカイブ|F0000000000000036697|『国民精神総動員委員会官制 御署名原本(昭和14年勅令第80号)』}}
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* [[田中義一内閣]]
* オラガビール([[サントリー|寿屋]]がかつて発売した[[ビール]])
**「オラが(俺が)」は田中の口ぐせで「おらが総理」「おらが宰相」と呼ばれた。
* [[落語家]]の[[雷門福助 (初代)|雷門福助]]は田中義一が陸軍大臣時代に運転手の助手を務めていた。
* [[蜷川新]]
271 ⟶ 275行目:
* {{Kotobank|田中 義一}}
* [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/126/ 田中義一 | 近代日本人の肖像] - [[国立国会図書館]]
* [https://
* [https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/026.html 歴代内閣ホームページ情報:田中義一 内閣総理大臣(第26代)] | 首相官邸ホームページ
* {{NHK放送史|D0009060007_00000|「国民に告ぐ」 田中義一首相}}
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[[Category:大正時代の閣僚]]
[[Category:昭和時代戦前の閣僚]]
[[Category:日本の内閣総理大臣]]
[[Category:日本の外務大臣]]
[[Category:日本の陸軍大臣]]
369 ⟶ 374行目:
[[Category:1864年生]]
[[Category:1929年没]]
[[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]]
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